村上春樹のエルサレム賞授賞スピーチについて

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090217/p1


村上春樹エルサレム賞の授賞式でのスピーチについては、すでにいろいろなエントリがあがっているようなので付け加えることはほとんどない。比喩を使った彼のいささか曖昧なスピーチに対しては不満の人もいるようだが、それはちょっと筋違いというものだろう。


スピーチでもいろいろ語っていたが、彼がイスラエルに行ったことには様々な動機があるだろう。
その中にはたぶん、イスラエルの人々、とりわけ今のあの国の政治状況の中で孤立している人らに、「あなたたちはけっして孤立などしていない」というメッセージを届けることも含まれていただろう。


その意味では、ガザ侵攻の直後にその当事国から賞を受けるとは何事かという非難を一部から浴びることは覚悟の上で、式に出席し、スピーチすることを選んだ彼の選択は支持されるべきだ。
パレスチナ紛争」の一方の当事者がイスラエルであり、しかもそれが状況を一方的に左右しうる圧倒的な力を誇る当事者である以上、その国の人々に訴えることも問題解決のためには不可欠なことだ。
それは、ほとんど説明する必要もない自明のことだろう。


なるほど、イスラエルやその支持者らは、村上が賞をボイコットしなかったことをもって、自己の勝利とみなすかもしれない。
彼は、イスラエルはあのような自国に対して批判的なことを述べる作家に対しても「名誉」を与える寛容な「民主主義国家」であり、「野蛮」なパレスチナとは違うのだ、という彼らの宣伝に一役買ってしまっただけだという批判も成り立つだろう。
そのような「宣伝」を許さないためには、たしかにボイコットする方が正しかったのかもしれない。
しかし、大事なのは、そのように「政治的」に利用されることを嫌い、自分の手が汚れぬことだけに気を配って、自分ひとりの「名誉」と手の白さを誇ることではない。


彼は自分ひとりの「純潔」を守ることより、自分のメッセージを伝えるという作家としての「使命」の方を優先させたのだろう。
「現実」にかかわるということは、いずれにしてもどこかで自分の手を汚すことであり、その覚悟をし、その責任を引き受けるということだ。
「現実」の世界には、すべての方程式を満たす唯一の解など存在しない。そんなことは、あまりに自明なことだろう。


むろん、イスラエルという国家、とりわけその軍隊による行為は厳しく批判されるべきことだ。
しかし、その国の人々に直接訴えかけるということには十分な意味がある。
なぜなら、その国を変えることができるのはその国の人々でしかなく、それは何よりも彼らの仕事なのだから。
「壁」にわれとわが身をぶつけて「壁」と戦っている「卵」は、「壁」の一方にしかいないわけではない。


一時の派手な言葉やパフォーマンスがすべてなのではない。
たとえ、それが今すぐの解決になどつながらないことが明らかだとしても。