「批判」にもなっていないことへの反論

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090224 からの続き


村上のスピーチに対して、パレスチナ側の人から不満が出ているとしても、それはあのスピーチが「イスラエル擁護」であり、村上の立場が「親イスラエル」だと主張する根拠にはならない。そもそも彼がイスラエルに出かけて、賞と賞金を受け取った以上、彼らからそういう反応が出てくることは十分に理解できることであり、事前から予想されたことでもある。


しかし、あのスピーチによって、パレスチナ側になにか具体的な損失が与えられたのか。
たしかに、結果として「イスラエル言論の自由が保証された文明的な国家である」という、イスラエルの宣伝に一役買ったことになるという指摘自体は間違っていない。だが、そのような宣伝に対する彼の責任など、アメリカを始めとする世界各国の政府やメディアのおかげで、トラックの荷台にすでに山積みになっている荷物に、ほんの一本か二本の藁を加えた程度のことに過ぎまい。


問題は、彼のスピーチによって、日本を含めた世界の中で、パレスチナ問題にそれまで無関心だったような人たちのなかから、あらためて関心を持つようになる人が生まれるかどうか、またイスラエル国内に、政府と軍のやりかたに対して疑問を持つようになる人があらたに生まれるかどうかであり、評価はそのことと合わせて行われるべきだ。そもそも評価というものは、そのように具体的に行われなければ意味がない。そして、そのような評価は拙速に行うべきではないし、またそうする必要もない。


あの村上の行動で、彼に失望し、あるいは彼に対し批判的になって、彼の小説を読むのはやめた、などという人がアラブやパレスチナ支持者の側に出たとしても、それは村上自身があの行動とスピーチによって負うリスクのひとつに過ぎない。だが、だからといって、「村上があんなこと言ったから、パレスチナを支持するのなんてもうやめた」とか、「おれは今日からイスラエル支持、政府支持のほうにまわるよ」などと言い出す人がひとりでも出てくるだろうか。


大事なのは、頭の中でこねくりまわして作り上げた抽象的な理屈を振り回すことではなく、現実とその中で生きている人間に対する具体的な想像力を行使することだ。そもそも、どこで誰がやろうと、またどんな立派なスピーチや明確で激烈な批判をやろうと、その効果がすぐに目につくほどに現れたりするわけないのは、分かりきったことではないか。「目に見える効果などどこにもないじゃないか」などといった台詞は(それも、遠く離れた極東の島国から)、現実というものが含む困難に一度も触れたことのない愚か者だけが言えることだ。


そういう台詞とそこに含まれる心性は、法務大臣に対してカルデロン一家への特別在留許可を求めるといった様々な運動に対して愚かな「ネット右翼」どもが言い放つ、「そんなもの、どこに効果があるんだ、やるだけ無駄だよ」という嘲笑といったいどこが違うのか。