それはただの「自己陶酔」

なんだか既視感たっぷりのことを得々と言っている人がいますね。そんなものは、全然新しくもなんともないというのに。

いまさらあらためて批判しなければならないほどのことでもないので、「陰謀論」に関する過去記事へのリンクだけ張っておきます。直接の論点は違うにしても、根っこにあるものはまったく同じでしょう。

実際、「歴史の見直し」を主張する者らが、これまでそのような「歴史の真実」が覆い隠されてきた理由として、フリーメーソンだのロスチャイルドだのと、歴史を捏造するほどの絶対的力を持っているらしい、なんらかの「陰謀主体」の存在を仄めかすのは珍しくありません。

たしかに、第二次大戦中に4,000人を超えるポーランド軍の将校が虐殺された「カティンの森」事件のように、現代史においても「歴史の真実」が覆い隠されていた例はあります。しかし、それはかつてのソビエトのような社会全体を統制する強力な全体主義的権力が成立していて初めて可能なことであり、その「真実」にしても、実際にはソビエトが認めていなかっただけの「公然の秘密」に過ぎなかったことです。

結局のところ、そういう安直な「歴史の真実」とやらに易々と惹かれてしまう態度は、「すべてを疑え」とか「権威を疑え」、「自分の頭で考えろ」のような、それ自体としては必ずしも間違ってはいない言葉を盾に取った、ただの「反知性主義」であり、自分の無知に居直った「知的怠慢」でしかないでしょう。

批判されればされるほど、まるで自分が不当な圧力や迫害を受けているかのように勘違いし、「殉教者」気取りで自らの「正しさ」を確信して、どんどんどつぼにはまっていくというのも見慣れた光景です。ちっとも、新しくなどないのですけどね。


 安易な「反権威主義」に潜むいかがわしさ
 「疑似科学」と「陰謀論」の相関性
 「陰謀論」と「疑似科学」あるいはポピュリズムとの親和性



ついでに長谷川宏版のヘーゲル精神現象学』からも引用
太字は引用者

 おのれの信念にしたがうのは、むろん、権威に身をゆだねるよりはましなことだ。が、権威にもとづく判断をおのれの信念にもとづく判断に変えたからといって、内容が変わるとは限らないし、あやまり転じて真理になるとも限らない。
 思い込みと偏見の体系にとらわれているかぎり、他人の権威によろうと、おのれの信念にもとづこうと、真理からは遠く、二つの違いはといえば、おのれの信念にもとづくほうが虚栄心が満たされやすいといった程度のことである。


とにかく、これまでの自分の言論をいささかでも大切にしたいと思うのなら、批判に対するただの即時的で感情的な反発と、「自己陶酔」の表れでしかないような記事を次々とアップするのはそろそろやめた方が賢明でしょう。
自分の名誉を最も傷つけるのは、他人からの批判や根拠のない中傷ではなく、自分自身の行為であり言葉であるということは、どんな場合にも当てはまる「真理」です。