lmnopqrstu氏への回答

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20090403/p1 へのブコメに関連した

http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090405/1238904940 への応答


現在のブコメは下

↑↓「少数者」を理念化しすぎでは。それは「感情移入」に過ぎぬのでは。「少数者」は顔のない集団ではないよ。「多数者」vs「少数者」の図式だけに頼るのはその中の個を見ぬのと同じ。観念的でナイーブなのはだれ?


以下、本論

最初のブコメで「あっち」と書いたのは基本的には字数の問題です。ただし「あちら」と書くべきであったかとは思います。その点の非礼についてはお詫びします。なお、最初のブコメを書き換えたのは、単にメタブコメをつけるのが面倒だったことと、書き換えた内容の方が、あとで見たあのArisanの記事へのブコメ全体の感じから見て適していると思っただけです。消したのは事実ですが、「撤回」という意思で行ったわけではありません。

なので、最初のブコメが次のような内容であったことは認めます。なにも、ことさらに他の方の「証言」を求める必要など、まったくないことです。


>あっちはそもそも問題がわかってない。マルクスの使い方にも違和感がある。


たしか、正確には最初、「あっちはそもそも問題がわかってない。ああいうマルクスの使い方をする人にはそれだけで違和感あり/↓ hitujiさん、それは誤読では、Arisanは彼のことをそう規定してるわけではない」というようなことを、字数ぎりぎりで書いていたと思います。私の見るところ、そちらのあの記事の関連で、マルクスを引き合いに出すことにさしたる意味も必然性もあったとは思えません。それは、もっと明確に言うならば、そのようなやりかたには、虎の威を借りたふうの「権威主義」のにおいがするということです。

むろん、わたしも記事の中での引用はよくします。とりわけ、マルクスの言葉は引用回数の多いほうです。しかし、それは、書いた記事の内容と関連する文の紹介や、引用文そのものについて批評したりすることを目的にしています。典拠の確認といった場合は別ですが、他の方との議論において、自分の論点を補強するために「有名人」の言葉を引用したり、名前を引き合いに出すようなことは、基本的に行っていないつもりですし、また行うべきではないと思います。他者に対する批判は自分の言葉で行う、これがわたしが自分に対して課している、批判に関する最低限のルールです。

また、マルクスを引き合いに出したあなたのArisanへの批判は、Arisan自身が「ぼくは在日朝鮮人に民族的なものからの脱却など求めるつもりはないので、なぜこういう風に言われるのか分かりません。」と言っているように、その点に関しては筋違いのものだと思います。ですから、彼に対する批判に絡めて、マルクスが師でありまた友人でもあったB.バウアーを批判した「ユダヤ人問題」を引き合いに出すことは、そもそも的外れだということです。

なお、これは言わずもがなのことですが、そちらから話しかけられたことがあろうとなかろうと、公開されている文に対してブコメをつけることには何の問題もないはずです。いずれも、そちらに対し批判的な内容であったことは確かですが、それは中傷や誹謗には当たらないと思います。また、言葉遣いが乱暴な点も認めますが、それは字数制限によるものであり、それ以上の理由はありません。

そちらがブログのプロフィールで「在日朝鮮人」であることを明らかにしていることは、以前に確認したのかもしれませんが、今回の件では忘れていました。なので、その結果として、Arisanへのあなたの「批判」に対する見方は変わってくるかもしれませんが、「問題がわかってない」(Arisanがなにを問題にしているかが分かっていない、という意味です)という印象は基本的に変わりません。

しかし、Arisanのところの書き換えたブコメの内容は、↑↓とあるとおり、直接にはあの欄に書き込まれていた他の方らを指します。ただし、Arisan本人と、全然関係ないことを書いている人、コメントなしの人は除きますが。

以上の点を除いては、以前のブコメの内容を含めて、いまのところ考えは変わりません。また、これ以上の「釈明」をするつもりも、いまのところありません。

なお、ここでより詳細な「応答」をしたので、そちらの記事にとりあえずつけた応答のブコメは消去します。



追記に対する応答としての追記:
上で明らかにしたように、「観念的でナイーブ」という言葉は、あなたを指したものではありません(そう解釈される余地はあったかもしれませんが)。私の考えは、すでにいろいろな「観念的でナイーブ」でない形(少なくともそのつもりです)で明らかにしています。その中には、今回の問題と関連があるものもあると思います。

なお、Arisanとあなたとの「論争」に介入するつもりはありません。Arisanの記事についてはわたしなりの理解と感想はむろんありますが、本人の代弁などするつもりはありません。議論の一方がうまく自分の意見を表明できていないために、相手に伝わっていないと思われるような場合には、横からちょっかいを出すこともたまにありますが、Arisanについてはその必要はないと思っています。

ただし、一言だけ述べるなら、Arisanは少なくとも、具体的な問題について考えようとしています。たしかに、いきなり警察の介入という極端な例を出したことには不用意の感もありますが、よく読めば、彼がいろいろな条件をつけて慎重に書いていることも理解できるでしょう。したがって、彼の問題意識そのものが、他の方がブコメで言っているように「一般的過ぎて無意味」だの「ナイーブすぎ」だのとは思いません。

ですから、わたしがブコメで書いた「観念的でナイーブなのはだれ?」という言葉は、その人たちに対して宛てたものです。わたしに言わせれば、「多数者」(差別者)vs「少数者」(被差別者)という図式だけですべてを押し切ろうという人たちの方が、現実を見ようとしていないという点で、よっぽど「観念的でナイーブ」だということです。それは前提とすべきことではあっても、すべてではないということです。

新たにまたいくつか論点をあげて、「観念的でナイーブ」でない形による「釈明」とやらを求めているようですが、ひとつはブコメを書き換えた事情についての説明です。また、「あちら」は少なくとも「あっち」よりは丁寧でしょう。半角云々については、まずあなたのHNが頭に浮かばなかっただけのことです。

なお、人を指示代名詞でさすこと自体に、とくに問題があるとは思いません。あの場合、「彼」という人称代名詞では誰を指すか分かりにくいでしょう。「あっち」「こっち」という二項的な指示代名詞のほうが、二つに分かれている議論の当事者を指す言葉としては適しているということです。なので、あなたを「ヨソモノ」扱いをしたわけではありません。実際、もし、あなたが誰かを批判した記事に対するブコメで、あなたの論争相手をさすとしたら、その場合は、あなたではなく、あなたの論争相手が「あっち」ということになるでしょう。

また、そのような言葉が代替可能な誰でもいい誰かなどではなく、特定の個人を指す言葉として使われているのが明らかであるなら、そのことだけで「個を見ていない」などという話にもならないでしょう。それは、あなたが「在日朝鮮人」であるかないか、などということとはむろん別の話です。

「字数を節約してまでお書きになりたかったことが何であるか」とのことですが、それは、書いてあることから、そちらが判断すればよいことだと思います。つまるところ、実際に「書いたこと」「書きたかったこと」である以上、そのような質問には意味がないということです。もっとも、書いていたことが意味不明だというなら別ですが。以上の説明で、わたしは「観念的でナイーブ」でない説明は十分に果たせたと思います。

なので、わたしはこれ以上あなたに対して「釈明」などする必要があるとは思いません。それでもなお、わたしが書いていることが「観念的でナイーブ」だというのであれば、その判断は、あなたの自由だとしか言いようがありません。どうぞ、ご自由にということです。次々と論点を挙げて「釈明」を求めるのはそちらの自由ですが、それに応答する必要やそれだけの意味があるかどうかは、こちらで判断します。