zames_maki 氏へのお返事

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090330#c1238779521

>なんかくだらないな。
君の雰囲気がわかってとても面白いですね。

>そういう違いがあることも頭に入れておいたほうがいいよ、と言っているの。
なるほど、あなたは「そういうアイデアもあるよ」と言いたい訳ですね。ただしそれはあなたが頭で考えただけで、調べた事も調べた人もいないけどね。
そういう事ですね。よく了解しました。

>詩人としての高村光太郎の責任は−自己の主体性(以下略)
いいねえ文学少年らしくて

>無理やり書かされたんだと言う方が、彼を免罪することになるわけ。
あなたは「高村光太郎にはプロパガンダする意図はなかった結果的にそうなった」事に拘っているようだけど、それは責任においてはどうなのか?
例えば、高村光太郎はその責任を取ったのですか?社会にむかって謝罪文を出し、自己批判をしたのですか?あるいは自省のための行動をしたのですか?そうしたもののない場合、高村は責任をとらず、逃げたと批判すべきだろう。責任とはそういうものではないのかね?


>(木下恵介は)映画人としての当時の自己の「良心」において製作したのだ
 違います。
木下恵介は日本国家の方針に従って、プロパガンダの目的に沿うように努力した、そういう意気込みを当時の雑誌で語っている訳です。こういう国からのプロパガンダへの協力要請と映画製作者のそれの同意は、映画の場合明確です。


>ようするに、
漢字変換を忘れてますよ


たとえば、人が自然死以外の死を遂げた場合の理由について、あらかじめいろいろと考えておくことは、頭の中でやるわけだ。それは、むろん現実にありうる想定でなければならないわけだが(なので「呪い殺された」とか「宇宙人に殺された」なんてのは、なし)、そのような事象についていちいち調べあげたりしなくとも、誰の責任でもない「単なる事故死」とか、他人のせいではあるが殺害の意思を伴わず結果として人が死んでしまった「過失致死」や「傷害致死」、さらに相手を殺すという目的を持って遂行された「殺人」などのカテゴリーを論理的にたてて区別することは可能だし、事件の分類にも役に立つ。ただそれだけの話である。

プロパガンダ」のことで言えば、アメリカで製作され、世界に向けて配信されている様々なTVドラマや映画には様々なバイアスがあり、その結果、観客に対するイデオロギー的で政治的な一種の「プロパガンダ」効果を持っていることは否定しない。しかし、それはその製作者らが、そのような「プロパガンダ」を目的として意図的に製作し、世界に配信しているということは必ずしも意味しない。それとこれとは別の話である。

もし、そのような区別をせずに、それらを一律に目的意識的なただの「プロパガンダ」視してしまえば、それは戦後日本社会にアメリカ製のTVドラマや映画が蔓延し、日本人の生活や考え方に大きな影響を与えたのは、日本人の「一億総白痴化」を意図したアメリカの陰謀だ!(アメリカによる「3S政策」(スポーツ、セックス、スクリーン)などと命名して、そういうバカ話を実際に触れ回っている連中もいるらしいが)、などという「トンデモ陰謀論」に限りなく近づくことになるだろう。一貫して指摘しているのはそういう話なのであり、その程度のことも理解できない者に、「私はプロパガンダに詳しいよ」とか、「複雑なメカニズムもきちんと認識していくことが大事」などと言われても、それこそ冗談にもならない。

あと、木下恵介が国策に協力したことは別に否定していない。ただ、その協力は彼の意思において行われたのであり、したがってその映画は単なる「プロパガンダ映画」とは言えないのでは(見てないから断定はしない)、と言っているだけ。プロパガンダとしての性格をすべて否定してるわけでもない。まあ、戦時中の日本の場合は、映画製作そのものが統制されていたという事情もあるわけだが。

そもそも、映画がひとつの芸術であるかぎり、宣伝目的を前面に出した露骨な「プロパガンダ映画」より、むしろ製作者がその「良心」にしたがって積極的・自発的に協力した場合の方が、見る者を感動させる力を持ち、その結果「宣伝効果」も大きくなるというものだ。それは、ナチの党大会やベルリン五輪を撮影した、リーフェンシュタールの映画の場合についても言えることだし、戦前の「プロ芸運動」でもさんざん論争されたこと。良心という言葉に、あえて「  」をつけた理由ぐらい読み取れんものかな。

なお高村光太郎は、戦争が終わったのちも、疎開先の岩手の山奥に粗末な小屋を建てて、そこで7年間、自炊独居生活をしている。それは一般に、戦争詩を書いて国民の戦意高揚に協力したことの責任をとったものだと理解されている。

世間に向けて、アリバイやただの言訳めいた「謝罪文」を出すとか「自己批判」をするとかいうのだけが、責任の取り方ではない。「無知」で「非常識」なのはいったい誰なんだか。本から得ただけの生煮えの知識をあれこれ自慢げに振り回す前に、もうちょっと人の話もちゃんと聞き、自分の頭で考えろよ、ということだ。だいたい、「プロパガンダ」か「プロパガンダ」でないか、というような単純な二者択一の話など、最初からしていない。

しかし、あえて変換せずに「ようするに」と書いたのにまで、「漢字変換を忘れてますよ」と文句をつけるとは笑ってしまう。現代の標準的な日本語表記では、「したがって」や「さすがに」などの接続詞や副詞の類は、一般に漢字にせずひらがなにすることになっている。「ようするに」と書いたのも、それと同じ理由によるものだ。なんでもかんでも、漢字を使えばいいというものでもないし、漢字を多用すれば賢く見えるというものでもない。備え付けの「変換機能」を使って漢字に変換するだけなら、それこそ子供でもできることだ。