hagakurekakugoさんの例の発言をめぐって

http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20090503/p1

  ここまで来ると思想云々ってより、もはや病気の類ですね。
  同じ日本人ってーか、同じ人類だとは思いたくないです。


たしかに、こういう言い回しはあまりいいとは思わない。こういう言い方は好みではないし、わたしならこういう言い方はしない。

しかし、この言葉も、たとえば汚い格好をして悪臭を放っているホームレスであるとか、手足が曲がっていたり、発音が不明瞭だったりする障害者だとかに侮蔑的に投げつけられる場合と、そういうことを言う者らに対して投げ返される場合とでは、その意味する内容がまったく違う。早い話、「同じ人類だとは思いたくない」という言葉がさしている内容が、両者では全然違っているのだから、同列に扱えるはずがない。

前者は徹底して非難されるべきだが、後者の場合であれば、基本的に支持されるべきだ。それを、ただ同じ言葉・同じ表現だからといって、「どっちもどっち」とか「右も左もだめ」とメタな立場に立つのは、ただの相対主義にすぎない。むろん、「右」と「左」と、どっちが上だとか下だとかいう党派性の話をしているのではない。「きれいな罵倒」と「きたない罵倒」というような話をしているのでもない。そもそも先験的に正しい立場など、ありはしない。

「右」だ、「左」だ、というような政治的党派性を嫌うのは自由だし、「群れ」を嫌うのも自由だ。しかし、そのために、「どっちもどっち」という立場を守ること自体が至上命題化してしまっていては、意味がないのではないか。それは、たんになんらかの立場にコミットすること自体を拒否するのと同じではないか。

「右」だろうと「左」だろうと、「体制派」だろうと「反体制派」だろうと、バカな連中やくだらぬ連中はいる。それは当たり前のことだ。世間一般に通用しているらしき、「右」だの「左」だのという陳腐なイメージのレッテルなど、ほとんど意味のないものだ。だが、「右」や「左」のバカに対してバカということは、別に「どっちもどっち」という「中立」をつねに保ち、自分の手をフリーにしておかなければできないというわけでもない。

玄倉川さんが掲げている「是々非々」という立場そのものは否定しない。だが、ある問題で一定の人らと同じ立場に立ったからといって、別の問題でも同じグループにいなければならない理由なんて存在しない。たまたま、誰かと同じ側に立つことになったからといって、一蓮托生の義務まで負うわけではない。綱領だのを掲げた明確な組織であるなら話は違うが、たまたま、立場が同じに見えるからといって、他人の言葉にまでは責任を負えないし、そんな必要なんて、はなからありはしない。

むろん、誰しも第三者から勝手に「グループ分け」されるのは、あまりいい気持ちはしないだろう。しかし、一定の立場にコミットしたからといって、その中でまたケンカするのが禁じられるわけでもなかろう。2chに巣食っているような、自分を高みに置いた「メタ気取り」が好きな連中からつけられる、グループ分けのための「レッテル」など、怖がっていてもしかたないことだ。

たしかに、怒りなどの感情にとらわれるあまりに、冷静さを失い、周りを見る余裕がなくなってしまうのは、いいことではないだろう。感情的な罵倒のみに終始するのも、誉められたことではあるまい。だが、それはまた別の話。「基本的に支持されるべき」とは、そういう意味だ。

「アンチ××」を自己の立場とすること自体は、その人の自由だ。だが、その結果、世間一般に流通している陳腐なイメージをそのまま受け入れてしまうことになってしまっては、どこにでもあるただの「色眼鏡」をかけていることにしか、ならないだろう。それもまた、あなたが嫌っているはずの「党派的思考」のひとつなのではないか。