「恣意」という言葉を使った理由

http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090429

世界には様々な問題が存在する。それはいまさら言うまでもないことだ。

だが、その様々な問題の中から、ガザ問題を「世界で一番大きな不正義」として押し出すとき、あなたの「恣意」以外に、あなたの非難にはいったいいかなる根拠があるのかということだ。

それがあなたの「恣意」であるならば、それはそれでいいことだ。そのときは、あなたは自分の責任において、自分が最も関心のある問題として、ガザの問題を押し出せばいい。

しかし、なぜそれに対して「世界で一番不正義」な問題などという形容をつける必要がことさらにあるのか、ということだ。


「恣意」という言葉は、一般には「好き勝手」とか「気ままに」とかいう意味なので、誤解を招いたかもしれません。追記で、「『選択』とした方がよかったかもしれない。」と書きましたが、これでもまだよく分からないかもしれません。なので、もうちょっと補足して説明します。

ぶっちゃけて言えば、人がなんらかの問題にかかわるとき、その理由はなんだってかまわない、ただの偶然でもなんでもかまわない、極端にいうなら、特別の理由などなくてもかまわない、単純な怒りや、「ほうっておけない」というような素朴な感情によるものでもかまわないのではということです。

むろん、自分にとってはその問題にかかわらざるをえない「必然性」があるなら、それもかまわないでしょう。それは、いわば「強いられた選択」とでもいうべきものです。しかし、「必然性」などない、ただの「偶然」によるからといって、その関わりに意味がないとか、「必然性」による場合に比べて、劣るというものでもないでしょう。

「必然性」というものは、多くの場合、「偶然性」として向こうからやってくるものです。人があるところに、ある関係の中に生まれるのも、それ自体は偶然性にすぎません。なにかの問題を知るのも、誰かとの出会いによって関わりを持つようになるのも、また偶然にすぎません。滔天が孫文との出会いによって、中国の革命運動に関わりを持つようになったのも、そういうことでしょう。

なので、最初に「恣意」という言葉を使ったのは、なにも「だから悪い、だからだめだ」とかいう意味だったのではありません。むしろ、「それでいいではないか」というのが言いたかったことです。最初に使った「恣意」という言葉には、以上のすべてが含まれます。

「パレスチナ問題にすでに大きな日本の税金が投入されている以上、ガザ問題をどう理解するか説明することは、日本国家の責任を分有する個人(私)にとって義務である。」という、野原さんの論理については了解しました。その責任と義務については、そのとおりだと思います。

しかし、人がなんらかの問題にかかわるとき、そのような責任が必ず前もってそこになければならないものでしょうか。ある問題への個人の関わりのいかんや程度は、そのような自らが属する国家の国民として負っている責任の有無や大小によって、規定されるべきものでしょうか。

逆に言うならば、日本の税金がそこへ投入されておらず、その問題に対する日本という国家の責任が比較的軽いからといって、ある個人の関わりにおいて、その問題をそうではない問題よりつねに劣後させなければならないという話にはなるまいということです。以上、念のための追記です。