野原燐氏の記事へのブコメへの補足

「一番大きな不正義である」というのは「ガザ問題の方が重い」ということとどう違うの。「あっさり」かどうかはどうでもいい。あなたはどういう権利でそんなことが言えるの。それは第三者による「序列化」ではないの

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090425#p2
上につけたブコメ


やや言葉足らずなので補足する。

「どういう権利」というより、「どういう立場」といった方がいいかもしれない。
いずれにしろ、ガザの問題にしてもダルフールの問題にしても、われわれは現地の具体的な情報も不足し、また具体的な影響力などほとんど行使し得ない第三者たるをえないわけだ。
そして、問題の当事者にとっては、言うまでもなく自らの問題が一義的なものであるわけだ。

で、あなたはいかなる権利をもって、「ガザ問題がいま世界で一番大きな不正義である」かと言えるのかということを、疑問として提示する。
あなたが「ガザ問題が世界で一番大きな不正義」であるという理由はなんなのか。
加害者が誰であるかという「主体を明確に名差すことができる」というのが、その理由であり、基準であるというのはまったく理解できないし、納得もできない。
それは、せいぜい非難できる相手が明確だということ以外に、いかなる理由を持つのか。まさか責任者が明確でなければ、それを非難することもできないというわけではあるまい。

世界には様々な問題が存在する。それはいまさら言うまでもないことだ。
だが、その様々な問題の中から、ガザ問題を「世界で一番大きな不正義」として押し出すとき、あなたの「恣意」以外に、あなたの非難にはいったいいかなる根拠があるのかということだ。

それがあなたの「恣意」であるならば、それはそれでいいことだ。そのときは、あなたは自分の責任において、自分が最も関心のある問題として、ガザの問題を押し出せばいい。
しかし、なぜそれに対して「世界で一番不正義」な問題などという形容をつける必要がことさらにあるのか、ということだ。


追記:文中で使った「恣意」という言葉は、「選択」とした方がよかったかもしれない。


「パレスチナ問題にすでに大きな日本の税金が投入されている以上、ガザ問題をどう理解するか説明することは、日本国家の責任を分有する個人(私)にとって義務である。」という点については、了解した。

しかし、ならばその責任の大きさは、われわれが、そのような国家の国民であるという立場によって規定されたものということだ。「責任」ならば、大小を論じることは可能だろう。なぜなら「責任」とは、それぞれの立場において担うべきものであり、それぞれの立場によって異なるものだからだ。

だが、それと「不正義」に対して順位をつけることとは別ではないか。「不正義」という言葉の意味が、果たされるべき責任が果たされていないという状況のことであるとしてもだ。

「正義/不正義」とは、まさにあなたの言葉を借りるなら、「自己の恣意をこえた、自他をともに拘束すると考えられた審級」ということになるだろう。それは、言い換えるなら、各自が置かれている立場を超えた「絶対的な審級」ということではないのだろうか。*1

正義に訴えるとは、自己の恣意をこえた、自他をともに拘束すると考えられた審級に訴えることであろうに。

にもかかわらず私はチェチェンではなく、「ガザ問題が「世界で一番大きな不正義」である」と考えるべきだと思う。すべての人が、ではない。


「正義に訴える」ということが、あなたの言うように「自他をともに拘束すると考えられた審級に訴えること」であるなら、「ガザ問題が「世界で一番大きな不正義」であると考えるべきだ」と言った以上、「すべての人が、ではない」という留保は無意味ではないか。そのような留保に意味があるとすれば、それこそ「世界で一番大きな不正義」が、人によって異なるということになってしまう。

いずれにしろ、野原さんに問うたのは、「正義に訴える」ことの是非ではない。「正義」が個人の恣意を超えた審級であることには同意する。だが、自己の負うべき「責任」の大小ではなく、世界の中の「不正義」に対して順位を付けられるとしたら、それは当事者だけではなかろうか。その意味においてならば、自らの身に不正を被った者は、誰もがその不正義を「世界で一番大きな不正義」だと訴える権利を有している。*2

*1:元の文は野原さんが引用しているとおりです。あちらの応答に気付く前に、文末を少し変えてしまいました。申し訳ない

*2:このパラグラフも、野原さんの応答に気付く前に加えた追加です