思ったこと

「これは芸術だ!」と宣言しさえすれば、「アートは政治の外にある」*1などと、政治を含めた現実から自立しうるのなら、そんな楽な話はない。本当に自立しうるかどうかは、まさにその表現の質の問題なのではないか。
そもそも表現としての表現の価値が「政治」や「道徳」によってなされるべきではないということは、その作品を政治やイデオロギーを含めた現実との関わりにおいて読むことを排除するものではない。
というか、具体的に設定された一定の状況において、ただのあやつり人形ではない具体的な性格を備えた人物が登場し、そこでなんらかの事件が起きるなら、そこに作者が無意識のうちに帯びている、政治性を含めたイデオロギーが関与し、投影され表現されるのはそれこそ当たり前である。
であれば、そのような読み方もひとつの読み方として成立するだろう。「作品」というものは、それこそいろいろな読み方が可能であり、また許されるのではないか。
非難されるべきなのは、表現としての作品の評価を「政治」や「道徳」の基準によって行うことであり、それとこれとは別の話である(「道徳」というのはなんのことか、いまひとつ分からんけど)。
芸術の評価は「政治の外にある」というのは、それこそ当たり前の話にすぎないのだが。
いまどき、「人民を団結させ、人民を教育し、敵に打撃を与え、敵を消滅する有力な武器として文芸を革命という機械全体の一構成部分にふさわしいものにする」などとのたまった、毛沢東「文芸講話」とかを金科玉条としているような人がどこかにいるのか?(おっと、日共左派がいた。あと労働党もか?)

*1:プラネテス」とかいう元ネタの漫画は全然知らないので、上はあくまで一般論。