ほんとにうんざりなのだが

承前*1


意識であれ社会であれ、なんらかの「二次的構成体」について、その基底である「一次的構成体」*2による「規定」という事実を指摘することは(あっ、駄洒落になってる)、当該の「二次的構成体」をその基底である「一次的構成体」によって「基礎付ける」ということを必ずしも意味しているわけではない。

そもそも、十分な観察や経験に基づき、かつ論理的に言っても十分な妥当性を有することを前提とすれば、ある事象に対する「基底」の指摘は基本的に「事実」の問題であって(むろん、それが誤謬である可能性はあるかもしれないが)、当該の事象を他の事象によって「基礎付け」しなければならないとか、「基礎付け」すべしとかいうような「当為」命題とは関係のない話である。

実際、意識であれ社会であれ、「二次的構成体」はすでにそれ自身として成立し機能しているのだから、その「二次的構成体」については独立して論じることはできる。だから、そのかぎりでは、わざわざ別の範疇である「一次的構成体」を持ち出してまで、ことさらに「基礎付ける」ことなんてことは必要がない。

それは、「政治」という現象が「経済」を基底としているからといって、「政治学」という学問が「経済学」による基礎付けを必要とするわけでもないし、ましてや「政治学」が「経済学」に解消されるわけでもないのと同じこと。

世界各地の部族や民族の風習・伝承などを対象とする「人類学」は、とりあえず現象としてすでに成立している目の前の事実を観察する学問なのだから、べつにわざわざ「進化心理学」やヒトという生物種に関する学問など持ち出さなくとも、それ自体成立するし、現にすでに100年以上も前から成立している。「学問」の成立にとりあえず必要なのは、一定の領域がひとつの学問の対象として、他の領域から明確に区分され画定されることだけでよいのだから。

そうではなく、「一次的構成体」による「規定」が問題となるのは、その上に成立している「二次的構成体」がどのようにして成立したか、なぜそのようなものがそのようなものとして存在しているのか、またどのようにして変化するのか、なぜ変化するのかというようなことを考察する場合。それは、もはや目の前に存在し、事実としての観察が直接に可能な「二次的構成体」の範囲内では論じられない。「一次的構成体」による「二次的構成体」の「基礎付け」ということが、たんなるナンセンスではなく、具体的で明確な意味を持つのはそういう場合。

たとえば、「政治」の世界であれば、小泉と麻生の仲が悪いとか、どこかの党の派閥抗争のようなレベルについてなら、なにも「経済」条件による規定などいちいち持ち出す必要はない。そういう基底による規定が問題となり(またまた駄洒落だ)、また問題としなければならないのは、それこそ「革命」とか「政変」のような、通常のレベルを超えた大きな政治変動や、長期的な視点から見た場合に限られる。

一般に「学問」というものは、直接目に見える表層的な現象についての「学問」から、直接には見えない、その奥に潜み、表層の現象を規定している基盤や一般的な構造・法則に関する「学問」へと進んでいく。つまり、表層に関する「学問」がまず成立し、理論的考察はすでに成立した「表層」に関する学問を手掛かりとして、さらにその奥へと進んでいくということだ。

だから、基底である「一次的構成体」に関する学問が成立するのは、一般的に言って、その上に成立する「二次的構成体」に関する学問より後になる。*3 「建物」はふつう一階から作られるが(たしかガリバーが「小人国」と「巨人国」の次に訪れたラピュタでは違ってたような)、「認識」というものはまず表層という上層階からつくられ、その基底へと逆に進んでいく。フレーザーの『金枝篇』からレヴィ=ストロースの「構造人類学」などへといたる、「人類学」の発展過程もそういうものだ。

むろん、「基底」に関する学問の成立は、すでにある程度成立している「表層」に関する学問にもなにがしかの影響は与えるだろう。そもそもいったん成立した学問だって、それで完成したわけではない。「学問」の成立は、その完成を意味するわけじゃない。「完成」しちまったら、それ以上の進歩もないことになる。どんな学問にも「未知」の部分はつねに残っているし、地平が広がることは、それまで「未知」であったことすら気づいていなかった新しい領域が、新たな認識の対象として登場することでもある。

ついでに付記すると、「二次的構成体」の基底である「一次的構成体」に関する学問が成立したからといって、それは前者の学問が後者についての学問から、無矛盾的に、言い換えれば論理的必然的に展開・導出できるということは意味しない。それは、それぞれの内容と具体的な互いの関係によるのであり、一概には決められない。現時点では不可能でも、ひょっとしたら将来には可能となる場合もあるかもしれないが、他の要素の介在などのために原理的に不可能な場合だってあるだろう。*4

世界のすべてが、「基底」からの弁証法的な移行と展開によって導出可能だとするのは、ドイツの靴職人であったベーメ*5のような神秘主義の影響を受けていたシェリングヘーゲル、あるいはさらにその影響を受けた一部の人たちの妄想。それに近いことを妄想していた、かつての「弁証法唯物論」は、「唯物論」とは名ばかりの、ヘーゲルを文字どおり裏返しただけのただの「神学」にすぎない。*6

一般的に言うなら、「一次的構成体」と「二次的構成体」とではレベルが異なっており、それぞれ独自の領域と対象、独自の法則を持つ。だから、後者に関する学問が前者に関する学問から展開・導出できるかどうかは、個々の具体的なレベルでしか判断できない。それは、酸素と水素が結合してできた水の性質は、もとの酸素と水素のそれぞれの性質とは全然異なるのと同じこと(それぞれの原子の特性とか、あまり詳しいことは知らないが)。


で、「哲学と科学が足りない」ってのは、いったいだれのことなんだ?
むろん、相手が言っていることを理解するために最低限必要な、個々の単語ではなく文脈を読むという「国語」の力もだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090918

*2:互いに関係を有する二つの領域がある場合、どちらが相手に対する「基底」という意味で一次的であるかを決めるのは、ひとつは存在論的な先後関係の問題であり、もうひとつは論理的な先後関係ということになるだろう。むろん、そのような「上位=下位」という基本的な規定関係が存在しない、互いに完全に対等かつ対称的な関係にある領域というのも存在はするかもしれない。比喩的に言うなら、陰と陽、プラスとマイナスのような。

*3:もっとも、「一次的構成体」といったって、つねに「二次的構成体」にすっぽり覆われていたり、その背後に完全に隠されているとは限らない。「自然」だって「経済」だって、昔から「表層」にも顕れていたのだから、その範囲では「学問」として成立しうる。「一般的に言って」という限定をつけたのはそういう意味。

*4:アルチュセールが『マルクスのために』に収められた「矛盾と重層的決定」で指摘したのはそういうこと。もっともその程度のことは、アルチュセールなど持ち出すまでもない、当たり前の話なのだが。

*5:参照 http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200702200000/, http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200702170000/

*6:つまりは裏返しのヘーゲル主義、数年前に死去した「盲目の教祖」と呼ばれた某党派の理論的指導者が提唱していた理論などはその典型。