コメントしようと思ったけど長くなったので(蛇足的追記あり)

以下は、地下に眠るMさんのところへのコメントとして書き始めたものの、長くなりすぎたのでこちらに記入することにしたものです。

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915/1252950872
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090918/1253211612

PledgeCrew [議論][すれちがい] あちらが「サル」という言葉で表してたのは文明や文化でもかわらぬ通時的な人間の基底のことでは。人間が歴史的存在であるとしてもそれがすべてではないしたとえ本能が壊れていようと人間は単なるタブララサではない 2009/09/18


先端的な部分はともかくとして、物理や化学のような原理的な意味で単純な自然科学と違って、実験による検証が不可能か、または不可能に近い学問の場合、厳密な「科学」として成立させることはきわめて困難です。そこでは経験や観察を基礎としながらも、抽象的論理的な思考によって考察を進めていくしかありません。したがって、その場合、どこまでが「科学」で、どこからは「思想」の領域になるのか、などという線を明確に引くことも同様に困難です。以下はそのことを前提とします。私はそもそもそれは「科学」なのか「イデオロギー」なのか、というようなスコラ的議論にはあまり興味を持ちません。

さて、わたしはsk-44さんの最新記事に、「たとえ本能が壊れていようと人間は単なるタブララサではない」というブコメをつけました。

人間は巨大な脳を持っています。その脳には様々な能力があります。感情も記憶も認識も思考も、その脳と、さらには脳を含めた身体、および人間を取り巻く環境としての外界との相互的な関係によって生じる産物です。

人間の外界認識は純粋に経験的なものであり、したがってそれは言葉による伝達と世代を超えた蓄積が可能です。それは長年の間に集積され、最終的には科学や技術、あるいは社会的制度といったものに結実します。そのような認識能力は地下に眠るMさんのところなどで再三指摘しているように、人間が生物として持つ能力に依存します。しかし、内容は無関係です。なので、この点については「遺伝」だの「進化」だのに関する学問が介入する余地はほとんどないでしょう。そのような領域に関しては、人間はまさに社会的歴史的、または文化的な存在と言うべきです。

しかし、通時的に、また地域や民族の違いを超えてほぼ普遍的*1に見られる感情や観念はどうでしょうか。人間はみな、喜怒哀楽といった基本感情を持っています。集団への帰属感*2、承認の欲求、アイデンティティを含めた自己の安定感といったもう少し複雑な感情や観念も、多少の違いはあれ、ほぼ普遍的に見られます。人間の思考そのものも、呪術とか宗教、あるいは神話などのように、同様にかなり普遍的な一定の傾向性や構造を持っています。*3

「人間はタブララサではない」というのは、人間の意識や感情がそのような傾向性をおそらくは普遍的なものとして帯びているのでは、ということを意味します。私は地下に眠るMさんのように、「進化心理学」に依拠するつもりはありませんが(あまり知らないし)、人間の脳自体が遺伝子の産物であり、感情や意識がその脳の産物である以上、普遍的に見られる感情、観念、思考方法といったものについて、脳に組み込まれたプログラムというような意味で制約されていると考えることは、いまだ未解明な部分も多いとはいえ、必ずしも今すぐ「非科学的」とか「疑似科学」というようなレッテルをはる必要はないのではと思います。

また、それは価値付けの話や、価値付けによる序列化といった話とも直接には無関係でしょう。そもそも、そのような制約は、それがあるとしても、人間全般に関するものであり、それによって集団や個人を選別しようというわけでもないですから「優生学」とも関係ありません。ただし、それに依拠する場合は慎重であるべきとは思います。「心理学」や「社会学」がそれ自体は「疑似科学」ではないとしても、政治的商業的宣伝であったり、「良き兵士」や「良き信者」などを作るための手段として利用されたというような例は、過去にいくらでもあるわけですから。

人間は文化を伴った長い歴史によって、社会的には大きく変化しました。科学も発達し、なんやかんやのわけのわからぬイデオロギーや学問、芸術も生み出してきました。これは歴史によって語るべきものです。しかし、その間も生物としてのヒトはほとんど変化していません。人間が素朴に持つ感情、感覚、意識といったものが、そういった脳に組み込まれているプログラム(それは単純な本能ではなく、外界からの刺激と交渉によって触発され、展開していくものですが)による影響を受けていると考えることも、それなりに成立しうる仮説であって、まったくありえない非科学的妄想だとまでは言えないでしょう。

ただし、それはそのような感覚や観念そのものが直接遺伝するという意味ではありません(ユングにはいささかその点で危ういものを感じます)。そうではなく、そういったものをほぼつねに、またかなりの程度自生的に生み出す基盤としてのハードとソフトが、人間にはあらかじめ備わっているのでは、という意味です。たいしたことは知りませんが、「進化心理学」というものが関わるのは、たぶんそういう領域なのでしょう。いずれにしろ、人間の脳は、なんのプログラムも入っていない空のハード(タブララサ)ではありません。これだけはまず確実に断言できます。

人間が作り出した社会は、よく「第二の自然」などと呼ばれますが、人間自身の身体という「自然」はいまなおその基底として存在しています。ですから、人間はヒトという種として背負っている自然史*4と、本来の意味での歴史という二重の歴史のなかでつねに生きています。自然史の上に社会としての歴史が成立したからといって、その基底にある自然史そのものが消滅したわけではありません。文明がいくら発達したとしても、人間が身体を持たない霊的存在にでもならない限り、身体と器官という自己の自然による制約は消失しません。

「人間は本能が壊れた動物である」という言葉はたしか岸田秀のものですが、この言葉を持ち出したsk-44さんは、そういう人間の素朴な意識、感覚、感情などが持つ傾向性といったものをいささか軽視しすぎのように思います。*5そういったものは、現代においても危機的状況やパニックなどでは無視し得ない(おおかたは否定的で破壊的な)影響力を持ちます。だからこそ、それは軽視したり無視したりすべきものではありません。また、そういう問題の存在を指摘することは、それをそのまま肯定することとも、「宿命」として容認することとも違います。*6

したがって、そのような観点で人間を見ることは、sk-44さんが地下に眠るMさんに対して言っている「他者の観念を規定するに至った人間存在をめぐる数千年の問いを、ひいては近代の達成である諸価値を、反故にしうるものではない」というようなこととは関係ないように思います。本人を代弁するつもりはありませんが、たぶん、地下に眠るMさんはそういうことを言っているのではないと思います。その点で、おそらくsk-44さんは地下に眠るMさんの言われることをうまく受け止めていないのではという感じがします。sk-44さんへのブコメに、「すれちがい」というタグをつけたのはそういう意味です。

なお、今の時点でわたしが地下に眠るMさんの書かれることについて関心を持っているのは、上に述べたような部分に限られます。ですから、これは当初の「エロゲ」問題について、sk-44さんに対し地下に眠るMさんを擁護しようとか、援護射撃をするなどという意図はいっさい持たないことも付記しておきます。*7以上はわたしなりの感想であって、お二人の議論に介入するつもりはありません。


蛇足的追記(2009/9/19)
sk-44さんは「人間存在は、遺伝子の産物ではなく、観念の産物です。」と書かれています。しかし、これは問題の単純化のように思います。人間の脳が遺伝子の産物であることはいうまでもないことであり、したがって脳が生み出した「装置」である「こころ」もまた、そういうヒトという種の特性による制約を受けているということは十分に想定可能なことでしょう。*8もし、そういう基底による制約がまったくないとすれば、ヒトの「こころ」一般を対象にした「心理学」も原理的に成立しえないはずです。

ただし、そのことは個々の具体的な「こころ」の機能や内容までが、遺伝子に還元されることは意味しません。具体的なレベルで言うなら、個々の人間の「こころ」は、当然その外部にある社会や文化、その人が置かれた環境や成長の過程、同じ種族である他のヒトを含めた他者との交流等によって影響を受けるからです。

したがって、人間存在が「遺伝子の産物」でもあるということを認めることは、人間存在が「観念の産物」であることと必ずしも対立しません。なぜなら、人間が「本能の壊れた動物」であり、また「観念」によって生き死にする生き物であることも、結局はヒトという種の特性であり、それによって生じたものだからです。したがって、それはただちにいわゆる「生物学的還元論」を意味するわけではありません。もっとも、これはいわば「隠れた前提」であって、通常はそこまで遡って論じる必要などない、捨象してもかまわぬ問題ではあるでしょうが。

sk-44さんが地下に眠るMさんの議論について、おそらくそうだとみなしているような「生物学的還元論」におちいるのは、人間存在をたんなる「遺伝子の産物」のみに切り縮めてしまう場合であり、遺伝子から直接かつ無媒介に、また非歴史的没社会的に、人間存在を導き出そうとする場合と言うべきです。そのへんにも、地下に眠るMさんと大きくすれ違っている(わたしにはそのように見えます)原因があるのではと思います。


最初のアップ時より、かなり追記・注記、一部修正しましたが、
その意図は論旨を明確にすることにあり、したがって論旨には変化ないはずです。
たぶん、これ以上の修正・追記は行わないと思います。(2009/9/21, AM2:45 頃)

*1:ここで言う「普遍的」とはたんに「ひろくあまねく」といった程度の意味であり、したがって「正常/異常」というような対立を伴うものでも、価値付けや価値尺度でもありません。

*2:ここで言っている「集団」とは、まずは家族や親族、朋友といった、互いに顔の見える範囲で形成された社会の基礎的集団を指します。民族や国家などの擬制的集団や二次的集団は、しばしばそのような基礎的な帰属感情を観念的に収奪することで、自己への「帰属感」を強めさせます。ナショナリズムや国家への帰属感を嫌うのは自由ですが、本当に批判しようと思うのなら、なぜ現代においても、そういった非合理的感情の克服がいまだ困難なのか、その根拠を問うのでなければ意味がありません。

*3:初期の人類学では、文化や社会の異なる民族・部族の特異な風習や制度に研究者の注意が集中した結果、未開人と近代人は異なる「心理」を持っているという結論を導きがちでした。しかし、だとすると文化・社会の異なる者どおしは永遠に理解しあえないことになります。表面的な違いの底には人間の持つ一般性もまたあるはずであり、「相違」と「類似」とはつねに相対的です。「融即原理」を唱えたレヴィ=ブリュルが批判されたのはそういうことでしょう。

*4:誤解のないよう、注記すると、人間は最初からただの生物一般ではない以上、このレベルまで還元しても、すでに自意識と観念という「病」を背負っています。sk-44さんの記事へのブコメに記した「文明や文化でもかわらぬ通時的な人間の基底」とはそういう意味です。それは文明や歴史による変容の捨象といってもいいでしょう。したがって、これはただの生物への還元を意味するものではありません。また「還元」にしろ「捨象」にしろ、論理的な操作なのですから、実際にそういう人間が存在するとか、存在しうるとか言っているわけでもありません。

*5:「軽視しすぎ」というよりも、むしろ「ことさらに無視しようとしている」と言ったほうが適切のような気もしますが。

*6:「制約」とか「規定」とかいうと非常に反発する人も多いようですが、どんな場合にも「制約」や「条件」を乗り越えるために必要なことは、まずそのことを意識し自覚することです。だから、それを自覚することと容認することは違います。

*7:これはsk-44さんにというより、むしろいろいろとやかましい「外野」への言明です。

*8:ただし、これはたとえば「しあわせ遺伝子」だの「悲しみ遺伝子」だのといったものが存在するというようなことを主張しているわけではありません。