思ったこと

議論をする場合、人と論を切り分けろ、というようなことがよく言われる。
それはたしかにそうなのだが、世の中には、ある論点でたまたま意見が食い違っても、この人は基本的に信用できるという人間と、その逆に、たまたまあることで意見が一致しても、こいつはやっぱり信用できねえなという人間が存在する。*1


そういうわけで、人と論はいちおう別ではあるが、まったく無関係というわけでもない。
たしかに、価値判断を基本的に含まない自然科学とか算術計算とかなら、そういう問題はあまり発生しないだろう。
しかし、論点に価値判断や評価を伴う議論の場合には、論者の信用性とか信頼性ってのは結構ものをいうし、それが論の評価に結びつくこともありえないわけではない。


もっとも、人への評価が無条件に優先してしまうと、今度はなにやら「個人崇拝」めいてくる。人間は、恋をすると「あばたもえくぼ」に見えるというが、その逆に、誰かを敵だと認定すると、なぜか「えくぼもあばた」に見えるという不思議な人もあちこちにいるようだ。まあ、そういうのが、いわゆる悪しき「党派性」というものなのだろうが。

 せっかくの立派な言葉であっても、胡散臭い人が言えば、胡散臭く聞こえてしまう。だから 「論」 と 「人」 とはたしかに別ではあるが、だからといってまったく関係ないというわけでもない。誰も反対できない麗々しい言葉を掲げることと、それをその人がどこまで理解しているかや、どこまで本気なのかということとは、まったく別の問題である。

年末に書いた記事
今年もいよいよ残り少なくなってしまった から


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すさまじきもの 検察による現職議員の逮捕についてふれた。


もうひとつ、宮内庁による「陵墓」指定についてふれたもの
正月早々風邪をひいてしまった

 宮内庁天皇やその一族の陵墓に指定しているもののなかには、怪しげなものが多いということは、以前から指摘されていることだが、そうやっていつまでも全然違う人の名前で祭祀を執り行っていたりしたら、いずれそのうちに 「おーい、おれはそこじゃないよ、ここにいるんだよ」 とか、「それは人違いだって、あたしゃその人とは違うよ」 みたいな声が、地の底から湧き出てくるのではあるまいか。

 古来より、怨霊というものは恐ろしいものである。菅原道真は雷神となって恨みある藤原氏天皇の一族に害をなしたし、保元の乱で弟の後白河天皇に負けて讃岐に流された崇徳上皇は、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」 という誓いをたてて、平安末期の争乱を引き起こしたという。日本古来の信仰に忠実たらんと欲するならば、名を取り違えたままで祭祀を行なうのは、御霊(みたま)を恐れぬもっとも不敬な行為と言わざるを得ない。

*1:とはいえ、すべての点において信用できる人間というのもいないわけで、たいていの人は、宗教とか政治関係などのように、この問題になると、日頃の冷静さや客観的な判断力を失ってしまうというような弱点をどこかしら持ってはいる。