連絡事項
こちらは気が向いたときしか、更新しません。
御用のある方は、下記のほうへお願いします。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/
最近は、こちらメモや覚書ふうになってます。
あと悪口とか
追記:2008/5/22
どうも、しゃれが通じない「まじめ○○」の人がいるようなので、
本館との使い分けについて書き留めておきます。
楽天の仕様上、あちらはコメント欄での議論に向いていません。
なので、コメント欄でのやりとりや特定の相手を意識した論争文などは
こちらに書きます。
また、楽天の方はすでに一定のブログスタイルが出来上がっているので、
それに合わないと判断したような文もこちらに書きます。
本当の「嘘つき」は、人前で「わたしは嘘つきです」などとは
けっして言わないものです。
そういうことで、よろしく
追記の追記(2009/5/11)
うっとうしいので、以後ここへのコメントは受け付けません。
「内心の自由」ってなんなんだ?
http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100421/Second_Rape
一般的なものであれ、特定の人間に対するものであれ、人間の様々な行為や行動に対する批判的な言及は、人間の意識、つまりはその内面に対する問いかけを伴わざるを得ない。いささか型にはまったものが多いとはいえ、「差別」はいけない、「いじめ」はよくない、というような、よくある一般的な啓蒙だってそう。人間の意識=内面への問いかけを伴わない批判など、なんの現実的な変革ももたらさない、無力な批判にすぎない。
たとえば、アメリカでの黒人差別に反対し抗議した人らの活動は、なによりも、そのような差別を当たり前のもの、自明のこととしていた人らの意識=内面への問いかけを伴うものであったはず。そして、そのような批判を多くの人が正当なものとして受け入れた結果、現在では、少なくとも、公然たる「人種差別」は非難されるものという合意が社会的に成立したということだ。
もちろん、だからといって個々人の「差別」意識までが解消されたとは言えまい。だから、「差別」は正当と思っている者がいまなおいたとして、非難を受けたり、社会的不利益を被りたくなければ、それは「内心」にしまっておけ、と呼びかけるのには、一応の合理性はある。だが、だからといって、人の心の中にしまわれている、そのような「差別」意識への問いかけが無用となるわけではないし、ましてや禁止されるわけでもない。
そもそも人の「内面」そのものが罰せられないのは、「内面」が「内面」に留まっている限りでは、他者の内面など、神様か超能力者でもない限り、誰にもわからないからだ。どんな絶対的権力者にだって、分からないものなど罰しようも裁きようもないのは、当たり前の話にすぎない。
だから、そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ほとんど無意味な戯言か、でなければ、そのような言葉を盾にとって、ただ他者の声に耳をふさぎ、「あーあー、聞こえない」状態に閉じこもることを、自ら正当化しているにすぎない。
言葉を含めて、人間の表現行為とは、他人の心のドアをノックすることだ。人間は、言葉を含めた表現によって、互いに影響し影響される。それは当たり前のことであり、人間の「コミュニケーション」とは、もともとそういうものだ。そこで「『内心の自由』は保証されている」などと言い出すことは、ただの無意味な冗言にすぎない。
むろん、そこでの「コミュニケーション」のありようはひとつの問題である。ずかずかと、他人の内面に踏み込もうとすれば、非難されることもあるだろう。だが、それは、なにも他人の心のドアを無理やりこじ開けて、ひとりひとりの「内心」を検閲してまわろうという話と同じではない。そうだというのなら、「差別はやめましょう!」というような、ありふれた一般的なキャンペーンだって、他人の「内心」の検閲であり侵害だという話になる。
それでもなお、「内心の自由」は保証されるべきだというなら、それは結局のところ、他人の「心」への働きかけ、言い換えるなら、政治的社会的な言論はもちろん、あらゆるおたがいの「コミュニケーション」そのものを禁圧すべきだということになるだろう。むろん、そんなことは誰も望むまいし、そもそも不可能なことでもある。
論理的に言うならば、保証する者とは、保証される者より上位の優越者でなければならない。国家や政治的権力が、「表現の自由」だの「結社の自由」だのを保証できるのは、裏返して言うならば、国家にはその気になれば、そういった自由を規制し、あるいは蹂躙するだけの現実的な力があるからでもある。それは、むろん歴史が証明している。
「内心の自由」は保証されているというならば、そのような保証を与えてくれる者は、いったいどこにいるのだろうか。もしいるとすれば、それこそ、人間の隠された「内心」もすべてお見通しという神様以外にありえないということになる。
そもそも、他者に自分の自由を保証してほしいというのは、自分の自由に関する生殺与奪の権を、その他者に預けるということとほとんど同義なのではあるまいか。人間の「内心の自由」などというものは、そのような他者から保証を受けられるようなものではない。
議論の作法、あるいは「論点ずらし」ということについて
http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51607219.html
http://blog.livedoor.jp/jabberwock555/archives/51612134.html
http://taraxacum.seesaa.net/article/131535144.html#comment
世界の中の事象というものは、いずれも複雑に構成されており、様々な側面を持っている。だから、ある問題についての論を批判するさいに、そこで抜け落ちている重要な視点や論点を指摘し、そこから相手を批判することは、それ自体として議論の作法に反することではない。そもそも、論点の客観的な軽重ということに限らず、同じ問題でも、人によって、どこに関心をもつか、どこを重視するかが異なるのはよくあることだ。個人の問題意識というものは、みな同じではない。
したがって、ある論を批判するさいに、その対象である論者と同じ土俵に、本意ではない場合もあるがことさらに乗ってみせて、その矛盾や誤りをつくか、それとも相手の土俵に乗らず、土俵そのものを引っくり返すかは、そのときどきの事情によるのであり、必ずしも相手の問題設定そのものに捉われる必要はない。そこで相手が論じていないことを勝手に持ち出したからといって、それがそのまま悪質な「論点ずらし」や「印象操作」を意味するわけではない。
しかし、場合によっては、相手の議論がそもそも一定の流れや枠組みの中にあり、その関係において、問題の特定の側面しか扱われていないということもある。特定の議論において、論じる対象のすべての側面を論じるなんてことは、どんな場合にも無理なのであり、本来ならば、その問題に関するきわめて重要な論点であっても、そういった行論の関係上、採り上げられていなかったにすぎないということもある。
そのような場合に、あたかも、お前は一番大事なこの点を無視している、これを無視しているのは、そのことに関心がないからに違いないかのように弁ずるならば、それはただの「言いがかり」であり、「論点ずらし」による「印象操作」でしかない。むろん、そのような「論点ずらし」が生ずる原因は、誤読や誤解、思い込み、なんらかの強迫的意識など様々であり、そのすべてが意図的で悪質な「印象操作」だとは限らないが。
ブコメへの補足(大幅に加筆)
http://d.hatena.ne.jp/toled/20100124/p1
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/toled/20100124/p1
PledgeCrew [在特会][支持する] 「非暴力」を旗印にした戦略家気取りのブコメには反吐がでる。問題は逮捕された少年を見捨てるかどうか。司法判断など関係ない。在特会の言うように彼が帰国子弟であるなら、彼にとってこれはただのゲームではない
一定の状況の中で、結果としてある行為をおこした者について、そこに一定の正当性を認め、そちらの側に立つということを表明したからといって、それはただちにそのような行為そのものを礼賛し、他の者にも同様の行為をとるよう呼びかけることを意味するわけではない。上の記事を読む限り、toledさんが言っているのもそういうことではあるまい。
もしも、そのような理屈が成り立つのなら、刑事裁判において冤罪ではない明確な「真犯人」であるところの被告人を弁護し、裁判官に対して事件の背景を考慮した情状酌量を求める行為もまた、同様にそのような犯罪を賞賛し呼びかける「非道徳的行為」として非難すべきということになる。しかし、そのような論理は、刑事裁判における弁護そのものを否定することにほとんど等しい。
人質をとって旅館に立てこもった金嬉老の裁判を支援した人たちは、そのことで、他の在日朝鮮人らにも同様の事件をおこすように扇動したとして非難されるべきだったのか? 支援者らは、実際にそのようなことを意図していたのか? いうまでもなく、彼が行った行為は明確な「犯罪」である。だが、だからといって彼を支援することまで非難するのは、とんだお門違い。それとこれとは別の話だ。
親や配偶者からの日常的な虐待や暴力に耐えかねて、やむをえずなんらかの事件を起こした者を弁護し支援したからといって、それがただちに同様の虐待に苦しむ他の者らに対して、同じような行為を推奨し呼びかけることになるのか?
あるいは、貧困によって犯罪に走った者に同情し支援することは、そのような「犯罪行為」を誘発するものとして禁じられるべきなのか? それとも、そういった人々を弁護したり支援したりする者らは、なにか言うたびにいちいち「彼の行った行為は許しがたいものですが」などと前置きし、弁解しなければいけないのか?
司法判断がどうであれ、個々人は自らの責任でどちらに立つか判断すればよいだけのこと。それとこれとは関係ない。「司法判断」がどうのという論は、たんに自己の良心と責任を捜査機関だの裁判所だのというたかだか一国家機関に預けているにすぎない。警察等による法的判断の結果がどうであれ、それによって少年らを擁護することまで一様に非難されたり、禁止されたりする筋合いはない。
mojimojiさんが言うとおり、「toledに賛成するかどうかはともかく、toled批判の水準」はあまりにも低すぎる。「少年らの側に立つ」という元記事の言葉をつかまえて、「暴力」容認だの「テロ」容認だのと騒いでいる連中は、あまりに頭が悪すぎる。「暴力反対」を錦の御旗にして逮捕された少年を見捨てるようなら、そんな者は最初から味方ではない。
本人になんの落ち度もない明々白々な「冤罪者」でなければ、被逮捕者や容疑者、被告人への弁護や支援をいっさい行なってはならないなんて、馬鹿な話はない。お上に逆らってはならなかった江戸時代ならいざ知らず、少なくとも現代の日本では。その程度のことも分からぬ者は、もう一度中学の「公民」から勉強しなおすべし。
「一種の」という表現について
PledgeCrew [こりゃだめだ] 「自己ルール」て言ったって、他人に関わるもので他人に表明したのであれば一種の片務契約でしょ。それじゃ自分は平気で約束を破る人間だと公言するのと同じですわな*1
tari-G [これはすごい][ウキャキャキャキャ] 「他人が聴くことが可能な場所でしゃべったら独り言ではない!」…と(笑)つまり、独り言を言うには、周りを見回し人やマイクが無いことを確認してから言わないと、片務契約が成立しちゃうらしい(笑)(笑)(笑) *2
自己ルール云々や片務契約云々って、言ってみれば水伝並みのトンデモなので、そこに気付く気配がない以上、もはや救いようがないというのが、正直、客観的な状況だと思う。
by tari-G 2010-01-19 22:53:43*3
ところで、「一種の」という表現は、たとえば次のように使う。
- 外交とは一種の戦争である。
- 恋愛とは一種の病気である。
こういった表現に対して、それは「外交」と「戦争」の違いを無視するものだとか、「恋愛」を癌や結核のような本物の病気と同一視するものだと解釈するものがいれば、ふつう、まともな日本語読解力を持っているとはみなされないだろう。
この場合、「一種の」とは両者に共通する性質をとりあげただけの、比喩表現の一種にすぎない。それにしても、口を開けば開くほど自ら墓穴を掘りまくる人というのは、よほど「客観的な状況」を見る能力に欠けているのだろう。まるで、撤退時期を見失って自滅したどこかの国の軍隊のようだ。
思ったこと
議論をする場合、人と論を切り分けろ、というようなことがよく言われる。
それはたしかにそうなのだが、世の中には、ある論点でたまたま意見が食い違っても、この人は基本的に信用できるという人間と、その逆に、たまたまあることで意見が一致しても、こいつはやっぱり信用できねえなという人間が存在する。*1
そういうわけで、人と論はいちおう別ではあるが、まったく無関係というわけでもない。
たしかに、価値判断を基本的に含まない自然科学とか算術計算とかなら、そういう問題はあまり発生しないだろう。
しかし、論点に価値判断や評価を伴う議論の場合には、論者の信用性とか信頼性ってのは結構ものをいうし、それが論の評価に結びつくこともありえないわけではない。
もっとも、人への評価が無条件に優先してしまうと、今度はなにやら「個人崇拝」めいてくる。人間は、恋をすると「あばたもえくぼ」に見えるというが、その逆に、誰かを敵だと認定すると、なぜか「えくぼもあばた」に見えるという不思議な人もあちこちにいるようだ。まあ、そういうのが、いわゆる悪しき「党派性」というものなのだろうが。
せっかくの立派な言葉であっても、胡散臭い人が言えば、胡散臭く聞こえてしまう。だから 「論」 と 「人」 とはたしかに別ではあるが、だからといってまったく関係ないというわけでもない。誰も反対できない麗々しい言葉を掲げることと、それをその人がどこまで理解しているかや、どこまで本気なのかということとは、まったく別の問題である。
年末に書いた記事
今年もいよいよ残り少なくなってしまった から
ついでに最新の記事
すさまじきもの 検察による現職議員の逮捕についてふれた。
もうひとつ、宮内庁による「陵墓」指定についてふれたもの
正月早々風邪をひいてしまった
宮内庁が天皇やその一族の陵墓に指定しているもののなかには、怪しげなものが多いということは、以前から指摘されていることだが、そうやっていつまでも全然違う人の名前で祭祀を執り行っていたりしたら、いずれそのうちに 「おーい、おれはそこじゃないよ、ここにいるんだよ」 とか、「それは人違いだって、あたしゃその人とは違うよ」 みたいな声が、地の底から湧き出てくるのではあるまいか。
古来より、怨霊というものは恐ろしいものである。菅原道真は雷神となって恨みある藤原氏や天皇の一族に害をなしたし、保元の乱で弟の後白河天皇に負けて讃岐に流された崇徳上皇は、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」 という誓いをたてて、平安末期の争乱を引き起こしたという。日本古来の信仰に忠実たらんと欲するならば、名を取り違えたままで祭祀を行なうのは、御霊(みたま)を恐れぬもっとも不敬な行為と言わざるを得ない。
*1:とはいえ、すべての点において信用できる人間というのもいないわけで、たいていの人は、宗教とか政治関係などのように、この問題になると、日頃の冷静さや客観的な判断力を失ってしまうというような弱点をどこかしら持ってはいる。
その話はいくらなんでも無理でしょう
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20091228/1261960641
PledgeCrew 沖縄, 間違い SF講和条約で放棄した領土には沖縄を含む南西諸島は含まれてない。したがって同条約第三条での施政権の米国委託は領有権が日本にあることが前提。WWI後の旧独植民地の場合とは違う。安保はただの二国間条約、無関係 2009/12/28
「前提」というのは日本側の解釈で、中国(人民共和国)側はこれらの日米合意を「二国間条約」として否定する可能性がある(すでにその見解は一部出している)。また米国側は明示的に領有権については言及しておらず、おそらく日本との軍事同盟がなくなった場合、領有権についてさらに沈黙する可能性がある。もともと領有権は基本的に日本国の問題。竹島的な状況をどう扱うかという問題にやはり帰着する。
まずはサンフランシスコ講和条約から
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/other/tpj.html
第二条【領土権の放棄】
(a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(b)日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(c)日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
(d)日本国は、国際連盟の委任統治制度に関連するすべての権利、権原及び請求権を放棄し、且つ、以前に日本国の委任統治の下に あつた太平洋の諸島に信託統治制度を及ぼす千九百四十七年四月二日の国際連合安全保障理事会の行動を受諾する。
(e)日本国は、日本国民の活動に由来するか又は他に由来するかを問わず、南極地域のいずれの部分に対する権利若しくは権原又はいずれの部分に関する利益についても、すべての請求権を放棄する。
(f)日本国は、新南諸島及び西沙諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
第三条【信託統治】
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
上記のとおり、日本が領有権を失った地域は列挙されています。したがって、その他の地域については、その時点では日本の領有権が引き続き認められたとするのは文理的に言って当然であり、アメリカが施政権を得た南西諸島の一部やその他の地域についてもそのように解釈できます。なお、「合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国」の提案は結局行なわれないまま、後段の規定に従って、アメリカが奄美、小笠原、沖縄など各地域の返還まで、ずるずると「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利」を行使してきたというのが歴史上の経過です。
もし、この条約の規定どおり、アメリカが国連の信託統治領への移行を提案していたら、そこで話が変わっていた可能性はあります。しかし、国連への信託統治提案も行なわれぬまま、1972年に沖縄は返還*1されたのだから、アメリカは信託統治の提案権を放棄したのであり、領有権の問題はそこで最終的に解決されたとするのも国際的に見て当然に妥当な話でしょう。したがって、沖縄の領有権について、「アメリカが過去に明示的に言及していない」というのがかりに正しいとしても*2、そのことにはなんの意味もないと言うべきでしょう。
また、多国間条約だったサンフランシスコ講和条約*3と違って、沖縄返還協定は当然ながら日米間の二国間条約です。アメリカは国連への沖縄の信託統治を提案しなかった以上、それは当然でしょう。他の国については、その二国間条約を認めるか否かの自由はあるでしょうが、沖縄が国連の信託統治領にはならなかったのだから、旧連合国といえども沖縄の領有権について口を挟む筋合いはありません。どこかの国が返還協定を認めないとすれば、それは沖縄は依然としてアメリカの施政下にあると主張するということにしかなりません。かりに日米安保が廃棄されたからといって、そういう主張をアメリカが容認したり、領有権の話を蒸し返したりするのはただの背信行為にしか過ぎないでしょう。そもそも、返還協定が結ばれたときの裏事情と、いったん結ばれた協定の法的効果とは別の話です。
たしかに、中国はサンフランシスコ講和条約に調印していません。当時の中華民国との間には、翌年に日華平和条約*4が締結され、その後、日中国交回復に伴って同条約は破棄されています。しかし、日中平和友好条約*5で、とりあえずは「両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的な平和友好関係を発展させるものとする」と謳われており、また現在の日中関係を考えても、中国がたとえサンフランシスコ条約に署名していないからといって、いきなり歴史的経緯や現実の状況を無視した無茶を言い出すとは考えにくいでしょう。
むろん、「おれたちはそんなものは認めない!」と言うのは、いつの時代でも自由ではあります。しかし、そもそもすでに韓国が実効支配していて、おまけに定住者もいない竹島の問題と沖縄の問題とを同列に並べて論じるというのが理解に苦しみます。そのためには、中国が沖縄に侵攻し、竹島に対する韓国と同様の実効支配を確立するというのが前提になるでしょう。だいいち、日本に対してそのような主張を中国やアメリカがするのに、いったいどのような外交的利益があるのでしょうか。また、そのような無茶な主張に、いったいどこの国が賛同し、支持するのでしょうか。
ただの外交的な脅しだとしても、相手を脅かすには、そこにそれなりの現実性がなければ意味がありません。非現実的な脅しなら、「やってみれば」と言えばすむだけの話、その度胸がこちらにあるかどうかというだけのことでしょう。finalventさんが書いていることはほとんど妄想に近い、ただの架空の話にすぎないとしか言いようがありません。現実性のない危機アジりの類にはあまり感心しません。「可能性」というなら、そりゃいろんな可能性があるでしょう。理屈なんてものも、つけようと思えばいくらでもつけられるでしょう。しかし、そういう無理筋の理屈を押したてた危機アジりというのは、むしろ昔は「左翼」の専売特許だったように思いますが。なにかといえば、「ファシズムがくるぞ!」とか、「軍国主義が復活するぞ!」とか。あるいは十年恐慌説や万年危機説とか。
*1:沖縄返還協定 http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19710617.T1J.html
*2:もし、そうだとすればそもそも72年の沖縄返還とはなんだったのか、そこでアメリカから日本に返還されたのは、沖縄に関するいかなる権利だったのかという話になるでしょう。もっともfinalventさんは、まさにそういう話がしたいのかもしれませんが。
*3:ソ連や中国、インドなどが調印しなかったため、当時は「革新」陣営から「片面講和」という批判を受けている。
*4:http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19520428.T1J.html
*5:http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html この条約については、たしかに具体性に欠けた抽象的条文が多いということは言えますが。