過去記事の発掘

某所プルードンの言葉が出ていたのでちょっと反応

「無政府主義についての誤解を正す」

 そもそも無政府を意味するアナルシという言葉は、19世紀フランスの人であるプルードンによる造語である。たとえば、彼はある手紙の中で、自分の思想について次のように述べている。

わたしの考えでは、無政府とは秩序の維持と、またあらゆる種類の自由の確保が、科学と法律との発達によって形成される公私の意識のみで十分な、一つの政治形式もしくは結合のことであり、強権の原理、警察制度、圧制と抑圧の手段、官僚主義、租税などがもっとも単純なるものにまで制限され、君主制と高度の集権化が連合制度と共同体に基づいた生活様式で置き換えられることにより消滅した政治形式もしくは結合をいうのである。


 また、彼は別の著書では、アナーキズムとは 「各人による各人の統治、すなわち英語でいう self-government (自己統治)のことであり...」 とも述べている。

 つまり、無政府主義とは、国家や政府といった社会を上から支配・統制する権力なしに、人々が自らの社会を自らの手で統治しうるということ、すなわちそのような強制的権力なしに人々は自らの行動を律しうるという、民衆の自治能力に対する全面的な信頼の上に成り立っているのであり、その根底に横たわっているのは、いささか楽観主義にすぎる人間観だということになる。


リバタリアニズムアナーキズムの関係について言えば、リバタリアニズムが国家に対する不信という意味で、広い意味でのアナーキズムの流れに属するとは言えるだろう。いずれにしても、細かく見ればいろいろな傾向があるのは当然だが、問題は「市場法則」の自己調整能力(アダム・スミスのいう「神の見えざる手」)に対する態度と、また市場の存在を前提とするならば、それをさらに統制する社会の自治能力に対する信頼度の問題ということになるのでは。もっとも、今時分スミスの言う「神の見えざる手」を手放しで賞揚する人はそうはいないだろうが。

過去記事の発掘

「自己イメージ」の歪み、または「認知的不協和」について (2008.08.17)


最近、どう見てもあなたこそ「独りよがり」だろうという人が、某所で他人を「独りよがり」呼ばわりしている滑稽な光景を見かけたもので。


ところで、今日は昔々、昭和の御世の1976年に、「天皇在位50周年記念式典」なるものが行なわれた日だった。
地元でデモがあったのだが、大学からのコースの途中に「護国神社」があり、そこでこちらの数倍の人数の奉祝行列と遭遇して冷や汗をかいた覚えがある。機動隊の皆さんに安全に「保護」してもらったので、襲撃されることはなかったが。

もっとも、当時はまだいまの「在特会」のようなあぶない連中はいなかった。
むろん、日の丸と軍艦マーチが大好きで、大音量でがなりたてる「街宣」右翼は昔もいたけれど。

Wikiによると、1928年の11月10日に、昭和天皇の即位礼が京都御所の紫宸殿で行われたのこと。
そのさらに十年後、今度は「在位60周年記念式典」も行なわれたそうだが、こっちは記憶にない。
すでに「社会人」であったから。

名は体を表す(Looperだからループが好き?)

http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200903280000/#comment


しかし、ネット上には、どうしてこうも現実の政治も分からぬくせに、政治について語りたがる愚か者が多いのだ。
あちらこちらで見かける、自分の言動が自分の支持する政党やその支持者への後ろ弾にしかなってないことに気づかぬ愚か者には、本当にうんざりする。まあ、どの政党の支持者にも、そういう「困った」ちゃんはいるものだが。

新しい記事と過去記事の宣伝

加藤和彦、自殺の報道

http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2009101700261

 17日午前9時25分ごろ、長野県軽井沢町のホテルの客室で、音楽プロデューサーで「ザ・フォーク・クルセダーズ」メンバーだった加藤和彦さん(62)=東京都港区=が首をつって死亡しているのが見つかった。客室には2通の遺書とみられる文書が残されており、県警軽井沢署は自殺とみている。
 同署によると、加藤さんは16日に1人でホテルに宿泊。17日午前8時半ごろ、ホテルから同署に「宿泊客の様子を確認してほしい」と通報があり、署員が駆け付けたところ、浴室内で死亡している加藤さんを発見した。
 加藤さんは数日前、知人女性との電話で「死にたい」という趣旨の話をしていたという。その後、加藤さんと連絡が取れなくなり心配になった女性がホテルに問い合わせた。
 女性は加藤さんが訪れそうな場所を捜していたという。ホテル側が内線電話をかけたが応答がなかったため、同署に通報した。
 遺書とみられる文書は紙に印刷され、加藤さんの関係者にあて書かれていたという。知人女性と音楽関係者の男性が本人と確認した。
 加藤さんは京都市生まれ。1965年、龍谷大在学中にクルセダーズを結成し、その後、サディスティック・ミカ・バンドを率いた。自ら作曲した「あの素晴しい愛をもう一度」「帰って来たヨッパライ」などがヒットした。 
 北朝鮮の曲を基にしたクルセダーズの「イムジン河」は発売中止になったが、2002年にCDが出て話題となった。最近も08年に別のバンドのアルバムを発表するなど、音楽活動を展開していた。(2009/10/17-19:46)


「やることがなくなった」といった内容の遺書を残したという報道もあって、ふとマルクスの娘婿だったラファルグとその妻(つまりマルクスの娘)が自殺したことを連想した。ラファルグについては最近「怠ける権利」の新版が出ており、うん十年ぶりに再評価の機運が出ているのかな。二三ヶ月前に買い込みはしたけど、ぱらぱらめくっただけで、まだちゃんと読んではいない。

 話は変わるが、マルクスの次女のラウラは、キューバ生れのポール・ラファルグという人物と結婚している。ラファルグはのちにフランス労働党を結成するなど、フランスにおけるマルクス主義の普及に務めた人だが、1911年に夫人であるラウラとともに、高齢のためにもはや革命運動の役に立てないという理由で自殺している。ときにラウラは66歳、ポールは69歳であった。

「岡崎次郎はどこへ消えたのか」(2007.10.1)より



ついでに新しい記事のほうも

 あれやこれやの雑感

 最後はまったくの余談だが、安保だの沖縄だのといった問題を全面展開したあげく、「君はどうするんだ? 許すのか、許さないのか」 みたいな論法でせまるのは、たしかに昔からよくあったオルグ作法のひとつである。このような論法が、ときとして 「詐術」めいて聞こえるのは、たぶんある特定の問題へのコミット、つまり、そのような問題に対する責任の引き受けということが、いつの間にか○○同盟だの○○派だのといった、特定の政治的立場へのコミットということにすり替えられているからだろう。

 そういうすり替えというのも、多くの場合、オルグしている本人自身が気づいていない。つまり、そういう論法を使う人自身が、頭の中で上にあげた二つの問題の違いに気づかず、無意識に等置しているということだ。しかし、この二つを等置し混同することは、その意図がどうであれ、結局は自派の勢力拡大のために個別の問題を利用するという 「政治的利用主義」の現れにすぎない。

 かりに、ある人がそのような責任を認めたとしても、それをどのような形で引き受けるかは、それぞれが自己の責任で判断すべきことである。ある問題について、自己の責任の存在を認めるか否かということと、その責任を個人がどのような形で引き受けるか、ということとはいちおう別の問題なのである。


相手の立場を問うという論法に対して反発が大きいのは、たぶんそれが上のような「すり替え」を伴ったオルグの論理として利用されることが多いからだろう。しかし、id:mojimojiさんの言う「応能責任」というのは、責任の引き受け方は個々で決めるべきというものだろうから、そういう非難や、「詐術だ」、「全体主義だ」などという批判はあたらないのではと思う。あとは、まあ単純に「嫌い」という人もいるのだろうけど。

id:kurahitoへの返答

http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20091004/p1
http://b.hatena.ne.jp/kurahito/20091007#bookmark-16544943
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/kurahito/20091004/p1

kurahito id:PledgeCrew 「どうでもいい」のは本文。BMする価値がないので消した。
"基地外"はネットスラングでしょう。言葉狩を逆用している点で、"国語(ry"的柔らかい排除よりは価値があるかと。

kurahito id:PledgeCrew 「人にもよる」し、「発言者の思想を知らない」のであれば、「根拠のない印象語り」でFAでは?はてな村人の思想を知ることは難しくないはずですよ。


言葉狩り」を逆用だって?
いつから、ここは「ビッグブラザー」の支配する国になったんだ?
ここは、スターリンやブレジネフが支配していた時代のソビエト連邦なのか?
キチガイ」って言葉を使ったら、それだけで逮捕されるのか?
シベリアの収容所にでも送られるのか?
精神病院にでも入れられるのか?
そうでないとしたら、なぜそこでイソップの真似などする必要がある。


ゴダールの「気狂いピエロ」は、レンタル店に堂々と並んでいる。きだみのるの「気違い部落周遊紀行」も禁書にはなっていない。図書館で借りて読むこともできるし、古書店で買うこともできる*1(昔は富山房から出てたが、今は絶版になっているのか。ただし読んではいない。ずいぶん前に見かけたことはある)。


文脈もなにも無視したむやみな「言葉狩り」に反対であり、また自分の使い方は差別にあたらないと思うのなら、そのままの言葉を堂々と使えばよい。批判されても、自分に理があると思うのなら、反論すればいいだけの話ではないか。もっとも、批判を浴びて、きちんとした反論ができず、火達磨になってもそこまでは知らぬが。


しかし、読みはそのままで、漢字だけを変えたその書き換えには、「差別語」だ、「精神障害者」差別だといった批判を受けた場合に、これは「キチガイ」のことではありませんよ、という言い逃れをすること以外にいったいいかなる目的があるというのだ。そういう書き換えをしている連中の多くは、むしろ自分にまっとうな理がないことを暗に感じているからそうしているのではないのか。そもそも、それは「はてな村人」とやらだけに限られた話なのか。


そんな批判逃れを目的にした書き換え*2が、たとえば「権威」に対する庶民の裏をかいた抵抗や「社会的タブー」に対する挑戦、「文化的抑圧」に対する戦略的迂回なのか。そんな姑息な書き換えのどこに、いったい評価できる「価値」があるというのだ。そこにあるのは、世間の差別意識にそのまま乗っかりながら、自己の責任だけは回避しようという陋劣で下卑た心性にすぎぬではないのか。馬鹿馬鹿しくて話にならない。


参照:http://h.hatena.ne.jp/PledgeCrew/9234090269303585709
   楽天での過去記事: ほのめかしの政治学 (2007/6/20)

*1:放送禁止用語」にはなってるようだが、あちこちあるブログでのNGワードになっているのかどうかまでは知らん。

*2:知的障害者のことを縮めて「池沼」(チショウ)と書くのもそう。池沼(イケヌマ)さんって、どこの誰のことなのだ。

ほんとにうんざりなのだが

承前*1


意識であれ社会であれ、なんらかの「二次的構成体」について、その基底である「一次的構成体」*2による「規定」という事実を指摘することは(あっ、駄洒落になってる)、当該の「二次的構成体」をその基底である「一次的構成体」によって「基礎付ける」ということを必ずしも意味しているわけではない。

そもそも、十分な観察や経験に基づき、かつ論理的に言っても十分な妥当性を有することを前提とすれば、ある事象に対する「基底」の指摘は基本的に「事実」の問題であって(むろん、それが誤謬である可能性はあるかもしれないが)、当該の事象を他の事象によって「基礎付け」しなければならないとか、「基礎付け」すべしとかいうような「当為」命題とは関係のない話である。

実際、意識であれ社会であれ、「二次的構成体」はすでにそれ自身として成立し機能しているのだから、その「二次的構成体」については独立して論じることはできる。だから、そのかぎりでは、わざわざ別の範疇である「一次的構成体」を持ち出してまで、ことさらに「基礎付ける」ことなんてことは必要がない。

それは、「政治」という現象が「経済」を基底としているからといって、「政治学」という学問が「経済学」による基礎付けを必要とするわけでもないし、ましてや「政治学」が「経済学」に解消されるわけでもないのと同じこと。

世界各地の部族や民族の風習・伝承などを対象とする「人類学」は、とりあえず現象としてすでに成立している目の前の事実を観察する学問なのだから、べつにわざわざ「進化心理学」やヒトという生物種に関する学問など持ち出さなくとも、それ自体成立するし、現にすでに100年以上も前から成立している。「学問」の成立にとりあえず必要なのは、一定の領域がひとつの学問の対象として、他の領域から明確に区分され画定されることだけでよいのだから。

そうではなく、「一次的構成体」による「規定」が問題となるのは、その上に成立している「二次的構成体」がどのようにして成立したか、なぜそのようなものがそのようなものとして存在しているのか、またどのようにして変化するのか、なぜ変化するのかというようなことを考察する場合。それは、もはや目の前に存在し、事実としての観察が直接に可能な「二次的構成体」の範囲内では論じられない。「一次的構成体」による「二次的構成体」の「基礎付け」ということが、たんなるナンセンスではなく、具体的で明確な意味を持つのはそういう場合。

たとえば、「政治」の世界であれば、小泉と麻生の仲が悪いとか、どこかの党の派閥抗争のようなレベルについてなら、なにも「経済」条件による規定などいちいち持ち出す必要はない。そういう基底による規定が問題となり(またまた駄洒落だ)、また問題としなければならないのは、それこそ「革命」とか「政変」のような、通常のレベルを超えた大きな政治変動や、長期的な視点から見た場合に限られる。

一般に「学問」というものは、直接目に見える表層的な現象についての「学問」から、直接には見えない、その奥に潜み、表層の現象を規定している基盤や一般的な構造・法則に関する「学問」へと進んでいく。つまり、表層に関する「学問」がまず成立し、理論的考察はすでに成立した「表層」に関する学問を手掛かりとして、さらにその奥へと進んでいくということだ。

だから、基底である「一次的構成体」に関する学問が成立するのは、一般的に言って、その上に成立する「二次的構成体」に関する学問より後になる。*3 「建物」はふつう一階から作られるが(たしかガリバーが「小人国」と「巨人国」の次に訪れたラピュタでは違ってたような)、「認識」というものはまず表層という上層階からつくられ、その基底へと逆に進んでいく。フレーザーの『金枝篇』からレヴィ=ストロースの「構造人類学」などへといたる、「人類学」の発展過程もそういうものだ。

むろん、「基底」に関する学問の成立は、すでにある程度成立している「表層」に関する学問にもなにがしかの影響は与えるだろう。そもそもいったん成立した学問だって、それで完成したわけではない。「学問」の成立は、その完成を意味するわけじゃない。「完成」しちまったら、それ以上の進歩もないことになる。どんな学問にも「未知」の部分はつねに残っているし、地平が広がることは、それまで「未知」であったことすら気づいていなかった新しい領域が、新たな認識の対象として登場することでもある。

ついでに付記すると、「二次的構成体」の基底である「一次的構成体」に関する学問が成立したからといって、それは前者の学問が後者についての学問から、無矛盾的に、言い換えれば論理的必然的に展開・導出できるということは意味しない。それは、それぞれの内容と具体的な互いの関係によるのであり、一概には決められない。現時点では不可能でも、ひょっとしたら将来には可能となる場合もあるかもしれないが、他の要素の介在などのために原理的に不可能な場合だってあるだろう。*4

世界のすべてが、「基底」からの弁証法的な移行と展開によって導出可能だとするのは、ドイツの靴職人であったベーメ*5のような神秘主義の影響を受けていたシェリングヘーゲル、あるいはさらにその影響を受けた一部の人たちの妄想。それに近いことを妄想していた、かつての「弁証法唯物論」は、「唯物論」とは名ばかりの、ヘーゲルを文字どおり裏返しただけのただの「神学」にすぎない。*6

一般的に言うなら、「一次的構成体」と「二次的構成体」とではレベルが異なっており、それぞれ独自の領域と対象、独自の法則を持つ。だから、後者に関する学問が前者に関する学問から展開・導出できるかどうかは、個々の具体的なレベルでしか判断できない。それは、酸素と水素が結合してできた水の性質は、もとの酸素と水素のそれぞれの性質とは全然異なるのと同じこと(それぞれの原子の特性とか、あまり詳しいことは知らないが)。


で、「哲学と科学が足りない」ってのは、いったいだれのことなんだ?
むろん、相手が言っていることを理解するために最低限必要な、個々の単語ではなく文脈を読むという「国語」の力もだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20090918

*2:互いに関係を有する二つの領域がある場合、どちらが相手に対する「基底」という意味で一次的であるかを決めるのは、ひとつは存在論的な先後関係の問題であり、もうひとつは論理的な先後関係ということになるだろう。むろん、そのような「上位=下位」という基本的な規定関係が存在しない、互いに完全に対等かつ対称的な関係にある領域というのも存在はするかもしれない。比喩的に言うなら、陰と陽、プラスとマイナスのような。

*3:もっとも、「一次的構成体」といったって、つねに「二次的構成体」にすっぽり覆われていたり、その背後に完全に隠されているとは限らない。「自然」だって「経済」だって、昔から「表層」にも顕れていたのだから、その範囲では「学問」として成立しうる。「一般的に言って」という限定をつけたのはそういう意味。

*4:アルチュセールが『マルクスのために』に収められた「矛盾と重層的決定」で指摘したのはそういうこと。もっともその程度のことは、アルチュセールなど持ち出すまでもない、当たり前の話なのだが。

*5:参照 http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200702200000/, http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200702170000/

*6:つまりは裏返しのヘーゲル主義、数年前に死去した「盲目の教祖」と呼ばれた某党派の理論的指導者が提唱していた理論などはその典型。

コメントしようと思ったけど長くなったので(蛇足的追記あり)

以下は、地下に眠るMさんのところへのコメントとして書き始めたものの、長くなりすぎたのでこちらに記入することにしたものです。

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915/1252950872
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20090918/1253211612

PledgeCrew [議論][すれちがい] あちらが「サル」という言葉で表してたのは文明や文化でもかわらぬ通時的な人間の基底のことでは。人間が歴史的存在であるとしてもそれがすべてではないしたとえ本能が壊れていようと人間は単なるタブララサではない 2009/09/18


先端的な部分はともかくとして、物理や化学のような原理的な意味で単純な自然科学と違って、実験による検証が不可能か、または不可能に近い学問の場合、厳密な「科学」として成立させることはきわめて困難です。そこでは経験や観察を基礎としながらも、抽象的論理的な思考によって考察を進めていくしかありません。したがって、その場合、どこまでが「科学」で、どこからは「思想」の領域になるのか、などという線を明確に引くことも同様に困難です。以下はそのことを前提とします。私はそもそもそれは「科学」なのか「イデオロギー」なのか、というようなスコラ的議論にはあまり興味を持ちません。

さて、わたしはsk-44さんの最新記事に、「たとえ本能が壊れていようと人間は単なるタブララサではない」というブコメをつけました。

人間は巨大な脳を持っています。その脳には様々な能力があります。感情も記憶も認識も思考も、その脳と、さらには脳を含めた身体、および人間を取り巻く環境としての外界との相互的な関係によって生じる産物です。

人間の外界認識は純粋に経験的なものであり、したがってそれは言葉による伝達と世代を超えた蓄積が可能です。それは長年の間に集積され、最終的には科学や技術、あるいは社会的制度といったものに結実します。そのような認識能力は地下に眠るMさんのところなどで再三指摘しているように、人間が生物として持つ能力に依存します。しかし、内容は無関係です。なので、この点については「遺伝」だの「進化」だのに関する学問が介入する余地はほとんどないでしょう。そのような領域に関しては、人間はまさに社会的歴史的、または文化的な存在と言うべきです。

しかし、通時的に、また地域や民族の違いを超えてほぼ普遍的*1に見られる感情や観念はどうでしょうか。人間はみな、喜怒哀楽といった基本感情を持っています。集団への帰属感*2、承認の欲求、アイデンティティを含めた自己の安定感といったもう少し複雑な感情や観念も、多少の違いはあれ、ほぼ普遍的に見られます。人間の思考そのものも、呪術とか宗教、あるいは神話などのように、同様にかなり普遍的な一定の傾向性や構造を持っています。*3

「人間はタブララサではない」というのは、人間の意識や感情がそのような傾向性をおそらくは普遍的なものとして帯びているのでは、ということを意味します。私は地下に眠るMさんのように、「進化心理学」に依拠するつもりはありませんが(あまり知らないし)、人間の脳自体が遺伝子の産物であり、感情や意識がその脳の産物である以上、普遍的に見られる感情、観念、思考方法といったものについて、脳に組み込まれたプログラムというような意味で制約されていると考えることは、いまだ未解明な部分も多いとはいえ、必ずしも今すぐ「非科学的」とか「疑似科学」というようなレッテルをはる必要はないのではと思います。

また、それは価値付けの話や、価値付けによる序列化といった話とも直接には無関係でしょう。そもそも、そのような制約は、それがあるとしても、人間全般に関するものであり、それによって集団や個人を選別しようというわけでもないですから「優生学」とも関係ありません。ただし、それに依拠する場合は慎重であるべきとは思います。「心理学」や「社会学」がそれ自体は「疑似科学」ではないとしても、政治的商業的宣伝であったり、「良き兵士」や「良き信者」などを作るための手段として利用されたというような例は、過去にいくらでもあるわけですから。

人間は文化を伴った長い歴史によって、社会的には大きく変化しました。科学も発達し、なんやかんやのわけのわからぬイデオロギーや学問、芸術も生み出してきました。これは歴史によって語るべきものです。しかし、その間も生物としてのヒトはほとんど変化していません。人間が素朴に持つ感情、感覚、意識といったものが、そういった脳に組み込まれているプログラム(それは単純な本能ではなく、外界からの刺激と交渉によって触発され、展開していくものですが)による影響を受けていると考えることも、それなりに成立しうる仮説であって、まったくありえない非科学的妄想だとまでは言えないでしょう。

ただし、それはそのような感覚や観念そのものが直接遺伝するという意味ではありません(ユングにはいささかその点で危ういものを感じます)。そうではなく、そういったものをほぼつねに、またかなりの程度自生的に生み出す基盤としてのハードとソフトが、人間にはあらかじめ備わっているのでは、という意味です。たいしたことは知りませんが、「進化心理学」というものが関わるのは、たぶんそういう領域なのでしょう。いずれにしろ、人間の脳は、なんのプログラムも入っていない空のハード(タブララサ)ではありません。これだけはまず確実に断言できます。

人間が作り出した社会は、よく「第二の自然」などと呼ばれますが、人間自身の身体という「自然」はいまなおその基底として存在しています。ですから、人間はヒトという種として背負っている自然史*4と、本来の意味での歴史という二重の歴史のなかでつねに生きています。自然史の上に社会としての歴史が成立したからといって、その基底にある自然史そのものが消滅したわけではありません。文明がいくら発達したとしても、人間が身体を持たない霊的存在にでもならない限り、身体と器官という自己の自然による制約は消失しません。

「人間は本能が壊れた動物である」という言葉はたしか岸田秀のものですが、この言葉を持ち出したsk-44さんは、そういう人間の素朴な意識、感覚、感情などが持つ傾向性といったものをいささか軽視しすぎのように思います。*5そういったものは、現代においても危機的状況やパニックなどでは無視し得ない(おおかたは否定的で破壊的な)影響力を持ちます。だからこそ、それは軽視したり無視したりすべきものではありません。また、そういう問題の存在を指摘することは、それをそのまま肯定することとも、「宿命」として容認することとも違います。*6

したがって、そのような観点で人間を見ることは、sk-44さんが地下に眠るMさんに対して言っている「他者の観念を規定するに至った人間存在をめぐる数千年の問いを、ひいては近代の達成である諸価値を、反故にしうるものではない」というようなこととは関係ないように思います。本人を代弁するつもりはありませんが、たぶん、地下に眠るMさんはそういうことを言っているのではないと思います。その点で、おそらくsk-44さんは地下に眠るMさんの言われることをうまく受け止めていないのではという感じがします。sk-44さんへのブコメに、「すれちがい」というタグをつけたのはそういう意味です。

なお、今の時点でわたしが地下に眠るMさんの書かれることについて関心を持っているのは、上に述べたような部分に限られます。ですから、これは当初の「エロゲ」問題について、sk-44さんに対し地下に眠るMさんを擁護しようとか、援護射撃をするなどという意図はいっさい持たないことも付記しておきます。*7以上はわたしなりの感想であって、お二人の議論に介入するつもりはありません。


蛇足的追記(2009/9/19)
sk-44さんは「人間存在は、遺伝子の産物ではなく、観念の産物です。」と書かれています。しかし、これは問題の単純化のように思います。人間の脳が遺伝子の産物であることはいうまでもないことであり、したがって脳が生み出した「装置」である「こころ」もまた、そういうヒトという種の特性による制約を受けているということは十分に想定可能なことでしょう。*8もし、そういう基底による制約がまったくないとすれば、ヒトの「こころ」一般を対象にした「心理学」も原理的に成立しえないはずです。

ただし、そのことは個々の具体的な「こころ」の機能や内容までが、遺伝子に還元されることは意味しません。具体的なレベルで言うなら、個々の人間の「こころ」は、当然その外部にある社会や文化、その人が置かれた環境や成長の過程、同じ種族である他のヒトを含めた他者との交流等によって影響を受けるからです。

したがって、人間存在が「遺伝子の産物」でもあるということを認めることは、人間存在が「観念の産物」であることと必ずしも対立しません。なぜなら、人間が「本能の壊れた動物」であり、また「観念」によって生き死にする生き物であることも、結局はヒトという種の特性であり、それによって生じたものだからです。したがって、それはただちにいわゆる「生物学的還元論」を意味するわけではありません。もっとも、これはいわば「隠れた前提」であって、通常はそこまで遡って論じる必要などない、捨象してもかまわぬ問題ではあるでしょうが。

sk-44さんが地下に眠るMさんの議論について、おそらくそうだとみなしているような「生物学的還元論」におちいるのは、人間存在をたんなる「遺伝子の産物」のみに切り縮めてしまう場合であり、遺伝子から直接かつ無媒介に、また非歴史的没社会的に、人間存在を導き出そうとする場合と言うべきです。そのへんにも、地下に眠るMさんと大きくすれ違っている(わたしにはそのように見えます)原因があるのではと思います。


最初のアップ時より、かなり追記・注記、一部修正しましたが、
その意図は論旨を明確にすることにあり、したがって論旨には変化ないはずです。
たぶん、これ以上の修正・追記は行わないと思います。(2009/9/21, AM2:45 頃)

*1:ここで言う「普遍的」とはたんに「ひろくあまねく」といった程度の意味であり、したがって「正常/異常」というような対立を伴うものでも、価値付けや価値尺度でもありません。

*2:ここで言っている「集団」とは、まずは家族や親族、朋友といった、互いに顔の見える範囲で形成された社会の基礎的集団を指します。民族や国家などの擬制的集団や二次的集団は、しばしばそのような基礎的な帰属感情を観念的に収奪することで、自己への「帰属感」を強めさせます。ナショナリズムや国家への帰属感を嫌うのは自由ですが、本当に批判しようと思うのなら、なぜ現代においても、そういった非合理的感情の克服がいまだ困難なのか、その根拠を問うのでなければ意味がありません。

*3:初期の人類学では、文化や社会の異なる民族・部族の特異な風習や制度に研究者の注意が集中した結果、未開人と近代人は異なる「心理」を持っているという結論を導きがちでした。しかし、だとすると文化・社会の異なる者どおしは永遠に理解しあえないことになります。表面的な違いの底には人間の持つ一般性もまたあるはずであり、「相違」と「類似」とはつねに相対的です。「融即原理」を唱えたレヴィ=ブリュルが批判されたのはそういうことでしょう。

*4:誤解のないよう、注記すると、人間は最初からただの生物一般ではない以上、このレベルまで還元しても、すでに自意識と観念という「病」を背負っています。sk-44さんの記事へのブコメに記した「文明や文化でもかわらぬ通時的な人間の基底」とはそういう意味です。それは文明や歴史による変容の捨象といってもいいでしょう。したがって、これはただの生物への還元を意味するものではありません。また「還元」にしろ「捨象」にしろ、論理的な操作なのですから、実際にそういう人間が存在するとか、存在しうるとか言っているわけでもありません。

*5:「軽視しすぎ」というよりも、むしろ「ことさらに無視しようとしている」と言ったほうが適切のような気もしますが。

*6:「制約」とか「規定」とかいうと非常に反発する人も多いようですが、どんな場合にも「制約」や「条件」を乗り越えるために必要なことは、まずそのことを意識し自覚することです。だから、それを自覚することと容認することは違います。

*7:これはsk-44さんにというより、むしろいろいろとやかましい「外野」への言明です。

*8:ただし、これはたとえば「しあわせ遺伝子」だの「悲しみ遺伝子」だのといったものが存在するというようなことを主張しているわけではありません。