話の続き

承前*1


「論理」にはつねにそれが適用される条件と範囲がある。
形式的な「論理」を、適用対象を含めて、その条件と範囲を超えて適用してしまえば、ただの空理にしかならない。
カントが言ったのは、そういうこと。
こちらが言った「犬はどこまでいっても犬」というのは、犬は人間のように知識や経験を集積して文明を築くことはできない、それは種としてのイヌが持つ生物的条件に規定されているからというだけのこと。
そのことと「女はどこまでいっても女」というのは全然関係ない。*2
こちらが言ったことをちゃんと理解もせず、また正面から反論し否定するわけでもなく、形だけ似せて、関係ない別の問題を持ち出すのはただの話のすりかえ。
だいたい、「女はどこまでいっても女」という言い方こそが、性別としての「女」と社会的に規定されたジェンダーとしての「女」を混同している証拠ではないか。

他人を批判するのはもちろん自由である。だが、相手の論をきちんと読みもせず、勝手に自分で短絡させておいて、あれこれと関係ないことをえんえんと書き連ね、それを「批判」だの「反論」だのと称されても、それはちょっと勘弁してほしい。「勝手にやっててください」としか、言いようがない。*3


いいかげん、同じことを何度も言わせないでほしいものだ。

なんかうんざり

「規定はされるが還元はされない」というのが、そんなに難しいのかいな。
ひとつ例をあげるなら、カント先生だって、人間の認識はその能力によって規定されるが、その内容は対象によって与えられる、と言ってます。
だから、カントによれば、人間による認識は理性と感性を含めたその認識能力に規定はされるが(もし、その能力を超えようとするなら、認識は必然的に誤謬におちいることになる。それが、カントによる「形而上学」批判の意味)、その内容は認識能力に還元できないってことになる。なぜなら、認識の対象は意識の外部に存在するのだから(内観はとりあえず別にして)。

我々の心意識の受容性は、心意識がなんらかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受けとる能力である。そこで我々がこの受容性を感性と名づけるならば、これに対してみずから表象を生みだす能力、即ち認識の自発性は悟性である。我々の直感が感性的直感以外のものであり得ないということ、換言すれば、我々が対象から触発される仕方以外のものを含まないということは、我々人間の自然的本性の必然的な在り方である。これに反して、感性的直感の対象を思惟する能力は悟性である。感性と悟性……この二つの特性は、そのいずれかを他にまさっているとすることはできない。感性がなければ対象は我々に与えられないだろうし、また悟性がなければいかなる対象も思惟されないだろう。内容のない思惟〔直感のない概念〕は空虚だし、また概念のない直感は盲目である。
カント『純粋理性批判岩波文庫 上巻 P124

一般論理学はもともと認識の内容についてはわれわれにまったく教えるところがなく、ただ悟性と一致する形式的条件、つまりいずれにせせよ対象にいささかもかかわりのない条件だけを示すに過ぎない。それだから少なくともその言い分によるとわれわれの知識を拡充し拡大すると誇称するものの、しかしそのために一般論理学を道具(オルガノン)として使おうとする不当な要求は、けっきょく何ごとによらずいくらかでももっともらしく主張したり、あるいはこれに対して勝手な論駁もするというような饒舌に終わらざるを得ないのである。
前掲書 P133


まあ、これはひとつの例であるが、それでも分からんというのなら、もうお手上げ。そもそも、人間が生物としての自己の条件に規定されてるかどうかなんて、自分の脳みそでもいじってみればすぐに分かることだろうに。
あと、id:letterdustは何でもかんでもごちゃごちゃにしない、人の言ってないことまで勝手に読み込まないように。

反論というわけではないが

承前*1

AとBが関係あること、AがBを基盤とすること、あるいはAがBから生じたということは、AがBに還元可能であることや、AとBが同じであることは意味しない。たとえば、子は親から生まれたものだが、親とは別の存在であり、親に還元されるものではない。

人間も生物である以上、ヒトという種が持つ生物学的な条件に規定されるのは当然のこと。社会の存続は、とりあえず一定の数の人間が生物として存在することを前提とするし、個人の意識もまたその個人が生命として存在し、その各器官が一定の水準で機能していることを前提とする。

したがって、人間の条件について述べるときに、生物としてのその条件から説き起こすことは、別に間違いではないし、それは人間をただの生物に還元することと同じではない。人間の意識は脳という器官の産物であり、ゆえにその機能によって制限を受け、ときには器質的障害等による影響も受ける。だが、だからといって、意識の具体的な内容までが脳の機能に還元されるわけではない。もしもそのように主張する者がいれば、それは当然誤りである。

価値なるものは観念であって、事実そのままは価値とはならない。だが、いかなる事実にも基礎を置かない価値や価値意識などというものは、たんなる主観的な思い込みか妄想、でなければただの空理空論でしかない。むろん、趣味や好みだのといった、個人の恣意に属する範囲のことであれば、それはそれで構うまいが。

しかし、「人権」や「個人の尊厳」などのように普遍性を有すべき観念が、なんの事実にも歴史にも基づいていない価値なのだとしたら、それはいったいどうやって生まれたのだろうか。ある晴れた日に、天から降ってきたとでもいうのだろうか。さらに、そのような価値が正しいものだとして、その「正しさ」というのは、いったいなにを基準とし、どこから与えられるというのだろうか。いかなる事実にも基礎を置かず、ただ「正しい」というのであれば、それはただの信仰でしかあるまい。

他人を批判するのはもちろん自由である。だが、相手の論をきちんと読みもせず、勝手に自分で短絡させておいて、あれこれと関係ないことをえんえんと書き連ね、それを「批判」だの「反論」だのと称されても、それはちょっと勘弁してほしい。「勝手にやっててください」としか、言いようがない。

ところで、レヴィ=ストロースマルクスから受けた影響について、こんなことを書いている。

 十七歳の頃、わたしは夏休みに知り合った若いベルギー人の、いまは外国駐在の大使になっている社会主義者からマルキシズムの手ほどきを受けた。マルクスを読むことに熱中したがゆえに、わたしはこの偉大な思想を通じて、カントやヘーゲルの流れをくむ哲学にもはじめて触れることができた。ひとつの世界がわたしの前に開けたのだ。そのとき以来、この熱情は失われることなく、社会学とか民族学の問題を解明するときには、たいてい『ルイ・ボナパルトの霧月十八日』や、『経済学批判』のいく頁かを開いて、前もってわたしの考察に生気を与えてから取り掛かるようになった。

 しかし、マルクスが歴史のかくかくの発展を正しく予見したかどうかは、問題ではない。物理学が感性から出発して体系を立てるものではないのと同じく、社会科学は事象の面に体系を立てるものではないことを、マルクスはルソーについて、決定的と思える形でわたしに教えてくれた。つまり、社会科学の目的はモデルを組み立て、その特性と、それが研究室で示すさまざまな反応の仕方を研究し、ついで、こうした観察の結果を、経験として経過することがら、予測とはるかにかけはなれているかもしれないことがらを解釈するにあたって、適用することにある。

講談社文庫版 『悲しき南回帰線』(室淳介訳)より


最後の部分から連想するのは、たとえばこんなところ

 何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。そこで価値実体と価値の大いさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した態容を貨幣形態に見せている価値形態は、きわめて内容にとぼしく、単純である。ところが、人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのに、他方では、これよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態の分析が、少なくとも近似的には成功しているというわけである。なぜだろうか? できあがった生体を研究するのは、生体細胞を研究するよりやさしいからである。そのうえに、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。

岩波文庫版 『資本論』 第一巻 第1版の序文


なお、これは向坂逸郎訳となっているが、実際には国民文庫版 『資本論』 と同じく、岡崎次郎がほとんど訳したものらしい。岡崎次郎については、以前にこんなことを書いた。


 岡崎次郎はどこへ消えたのか


追記(2009/9/14)
上で引用したレヴィ=ストロースの文は、下の記事でも引用していた。
 レヴィ=ストロース、マルクス、さらにサルトルについて


http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915/1252950872

「野生の思考」から

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090903/1251954911


上で引用されている「西洋文化においては、まるで個人がそれぞれ自分の個性をトーテミズムとしているかのようである。個人の存在を所記とすれば、個性はその能記なのである。」につながる、ちょっと前の部分

 このような細かな説明が不可欠だと考えたのは、種の観念や個体の観念が社会学的でかつ相対的な性質のものであることを、誤解される心配なしに強調するためである。生物学的観点から見るならば、同一人種(人種という用語が明確な意味を持つと仮定して)に属する人間たちは、同じ一本の木の上に芽ぐみ、開花し、しぼむ個々の花にくらべられる。その花はいずれも一品種の標本である。同様に、種ホモサピエンスの成員はすべて、論理的には任意の動植物の種の成員に較べられることになる。ところが、社会生活のために、この体系には奇妙な変換が行われる。すなわち、社会生活の中では、生物学上の各個体がそれぞれ個性を発達させることになる。個性という観念が出てくれば、もはや一品種の標本という考え方はあてはまらない。それは、おそらく自然界には存在しない品種もしくは種の一タイプである。(熱帯地方には、ときにそのきざしになるものがあるけれども。)個性とは、いわば「単一個体的」観念である。ある個人が死ぬとき消滅する個性とはなにかと言えば、それはいろいろなものの考え方と行動のひとつの綜合体であって、まったく独自でかけがえのないものである。

『野生の思考』P257-258


そもそも、レヴィ=ストロース文化人類学者であって生物学者ではない。であるなら、彼がここで言っている「種としての個体」という概念も当然ながら、生物学的な概念ではないし、生物学でいう「種」という概念との直接の関係もない。『野生の思考』に収められた「種としての個体」というこの章の全体を読まずとも、レヴィ=ストロースが何者であるかを知ってさえれば、そのくらいのことは分かりそうなものだが、「優生学*1がどうのとか、なんだかずいぶんと頓珍漢な「反論」をしてる人がいるもよう。

そもそも、人間が人間たるゆえんは、たんなる自然史、すなわち生物としての進化のうえに、社会と文化を伴った本来の意味における歴史という二重の歴史を背負っているからであり、それはすなわち人間が人間となったときから、観念なるものをつねに分泌しており、物質的生活と観念的生活の二重の生活を生きていることの帰結なのである。言うまでもなく、それは近代に限ったことではない。

ちなみに、上で引用したレヴィ=ストロースの「社会生活の中では、生物学上の各個体がそれぞれ個性を発達させることになる」という一節は、手稿のまま生前は公開されなかった「経済学批判への序説」(マルクス)の中にある、「人間は最も文字どおりの意味でゾーンポリティコンである。たんに社交的な動物であるだけでなく、ただ社会の中だけで個別化されることのできる動物である」という部分を踏まえているのではないかと思う。

あと、同じくマルクスの「経済学哲学草稿」には、「類的存在」(Gattungswesen)という語句が頻出する。この「類=Gattung」とは当時ヘーゲルやその弟子などがよく使っていた言葉だそうだが、生物学で言う「種」と同じであり、レヴィ=ストロースのいう「種としての個体」という表現もこれを受けているのではあるまいか。

 人間は類的存在である。というのは、人間が類を、人間自身の類をもその他の事物の類をも、実践的および理論的に人間の対象にするからというだけでなく、むしろ ―― そしてこれはただ同じ事柄に対するもうひとつ別な表現にすぎないが ―― むしろまた、人間は自分自身に対して現在の生きた類に対してのようにふるまうからであり、自分自身に対して、ある普遍的な、それゆえに自由な存在に対してのようにふるまうからである。

第一手稿「疎外された労働」より


疎外論」に代表される、「経哲草稿」を書いた当時のマルクスの思想については、当時の僚友だったヘスの影響が強いとする広松をはじめ、いろいろな議論があるがそれは省略。フランスで「経哲」をはじめとする初期マルクスを先駆的に研究したのは、『日常生活批判』などを書いたアンリ・ルフェーブルか。ルフェーブルはレヴィ=ストロースより七歳上。サルトルよりは四歳上ということになる。もっともルフェーブルは、アルチュセールフーコーに代表される、登場間もないいわゆる「構造主義」に対しては、サルトル同様批判的だったのだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090904/p1優生学」という非難は撤回したらしい。しかし、いずれにしても「多様性があると生存競争的に有利である」なんて主張は誰もしてないのだから、的外れであることに変わりはない。

「馬鹿」なのはいったい誰なのだ

http://anarchist.seesaa.net/article/127005829.html
http://b.hatena.ne.jp/entry/anarchist.seesaa.net/article/127005829.html

戦後64年。やっと中共北朝鮮に出来ない政権交代を行い、韓国に継ぐ民主的な政治を勝ち取った今回の衆議院選挙。

民主党の圧勝を素直に喜んでいるが、その一方で民主主義によりキングメーカーだと勘違いしている「森」は泉ピンコや朝鮮人*1ユンソナなど芸能人を大量導入して当選。
東国原を担ぎ出した道路利権族「古賀」は創価学会婦人部に土下座して当選。
政権を投げ出した「安倍」は余裕で当選。
あなたとは違うんです」と逆切れ辞任した「福田」も当選。
日本をズタズタにした「小泉の息子」も世襲のおかげでラクラク当選。

石川、筑後、山口、横須賀と核爆弾でも投下されないとわからない馬鹿な大衆なんだなぁと思ったよ。
残念だけど、オマエラのところに大規模公共工事はやらせないからw


正直、民主主義ってのは「ヒトラー」も当選させる両刃の剣なんだよな。今回当選した自民党の戦犯どもは「ヒトラー」以下だけどさぁ。


 明確に指摘しておくが、ファシズムというものは、君の言うような「馬鹿な大衆」が直接に生み出すものでもなければ、100年以上も前にトクヴィルやミルが危惧したような「衆愚政治」から直接に生まれるものでもない。

 ファシズムとは、イタリアの場合には左翼上がりで指導者を気取っていたムソリーニや取り巻きの三流哲学者ども、ドイツならば三流絵描きだったヒトラーや三文文士だったゲッペルス、あるいは思想家気取りのローゼンベルクや英雄気取りのゲーリングなど、君のように「馬鹿な大衆」などという言葉が大好きな連中と、その取り巻き。

 言い換えるなら、「大衆」はみな騙されている、われわれこそが隠された「真実」や「真理」に目覚めた選良であり、その「真理」によって大衆を指導し、民族と国家、社会を再建するという神聖な任務を与えられているのだとばかりに思い上がった連中によって生み出されたのだ。

 そして、自分もまたただの大衆であるにもかかわらず、「核爆弾でも投下されないとわからない馬鹿な大衆」だとか、「21世紀中年が夢想する、破壊的な革命計画」などという馬鹿げた大言壮語をことさらに好む、君のようなニヒリスト気取りの者らこそが、ニーチェオルテガの言うようなほんものの「馬鹿な大衆」と言うべきなのであり、君のような虚言と虚勢の入り混じった人間こそが、その条件さえ与えられたならば*2、いつでも「ファシズム」を呼び起こし引き寄せるのだ。


泉ピン子ユンソナによる選挙中の森喜朗応援については、http://news.livedoor.com/article/detail/4329527/ を参照

児童ポルノ規正法がらみで、アグネス・チャンを「アグネス・チャンコロ」と呼んだエントリについてはここを参照
http://anarchist.seesaa.net/article/122393545.html

*1:赤字による強調は原文のまま

*2:http://d.hatena.ne.jp/PledgeCrew/20080608

思ったこと

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090820/1250780633
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090820/1250780633

代替可能な存在であることは、ニンゲンにとって耐えられるものではにゃ


人間の「代替不可能性」というのは、もちろん幻想である。そんなことは、それこそ分かりきったことだ。
戦争や緊急の事故、大災害などといった極限状況においては、当然ながらそんな幻想は吹っ飛んでしまう。
だが、そのような幻想がはぎとられる状況とは、まさに人間がただの生物に還元されてしまう状況と言うべきではないか。


そもそも、人間とは幻想すなわち観念によって生きもすれば死にもする生き物ではないか。
「ニンゲンにとって耐えられるものではにゃー」というのは、そういう意味だろう。


id:Midas氏は、「『代替可能』は残念ながら人間の条件」と言っているが、それはむしろ生物一般にとっての条件であって、特殊な生物としての人間の条件ではない。だからこそ、魚は途中で天敵に食われてもいいように無数の卵を産み、植物もまた無数の花を咲かせて種を作るのではないか。


そういう観念=幻想というものが、人間にとって厄介なものであることは、これまた言うまでもないことだが。

思ったこと

「これは芸術だ!」と宣言しさえすれば、「アートは政治の外にある」*1などと、政治を含めた現実から自立しうるのなら、そんな楽な話はない。本当に自立しうるかどうかは、まさにその表現の質の問題なのではないか。
そもそも表現としての表現の価値が「政治」や「道徳」によってなされるべきではないということは、その作品を政治やイデオロギーを含めた現実との関わりにおいて読むことを排除するものではない。
というか、具体的に設定された一定の状況において、ただのあやつり人形ではない具体的な性格を備えた人物が登場し、そこでなんらかの事件が起きるなら、そこに作者が無意識のうちに帯びている、政治性を含めたイデオロギーが関与し、投影され表現されるのはそれこそ当たり前である。
であれば、そのような読み方もひとつの読み方として成立するだろう。「作品」というものは、それこそいろいろな読み方が可能であり、また許されるのではないか。
非難されるべきなのは、表現としての作品の評価を「政治」や「道徳」の基準によって行うことであり、それとこれとは別の話である(「道徳」というのはなんのことか、いまひとつ分からんけど)。
芸術の評価は「政治の外にある」というのは、それこそ当たり前の話にすぎないのだが。
いまどき、「人民を団結させ、人民を教育し、敵に打撃を与え、敵を消滅する有力な武器として文芸を革命という機械全体の一構成部分にふさわしいものにする」などとのたまった、毛沢東「文芸講話」とかを金科玉条としているような人がどこかにいるのか?(おっと、日共左派がいた。あと労働党もか?)

*1:プラネテス」とかいう元ネタの漫画は全然知らないので、上はあくまで一般論。