反論というわけではないが

承前*1

AとBが関係あること、AがBを基盤とすること、あるいはAがBから生じたということは、AがBに還元可能であることや、AとBが同じであることは意味しない。たとえば、子は親から生まれたものだが、親とは別の存在であり、親に還元されるものではない。

人間も生物である以上、ヒトという種が持つ生物学的な条件に規定されるのは当然のこと。社会の存続は、とりあえず一定の数の人間が生物として存在することを前提とするし、個人の意識もまたその個人が生命として存在し、その各器官が一定の水準で機能していることを前提とする。

したがって、人間の条件について述べるときに、生物としてのその条件から説き起こすことは、別に間違いではないし、それは人間をただの生物に還元することと同じではない。人間の意識は脳という器官の産物であり、ゆえにその機能によって制限を受け、ときには器質的障害等による影響も受ける。だが、だからといって、意識の具体的な内容までが脳の機能に還元されるわけではない。もしもそのように主張する者がいれば、それは当然誤りである。

価値なるものは観念であって、事実そのままは価値とはならない。だが、いかなる事実にも基礎を置かない価値や価値意識などというものは、たんなる主観的な思い込みか妄想、でなければただの空理空論でしかない。むろん、趣味や好みだのといった、個人の恣意に属する範囲のことであれば、それはそれで構うまいが。

しかし、「人権」や「個人の尊厳」などのように普遍性を有すべき観念が、なんの事実にも歴史にも基づいていない価値なのだとしたら、それはいったいどうやって生まれたのだろうか。ある晴れた日に、天から降ってきたとでもいうのだろうか。さらに、そのような価値が正しいものだとして、その「正しさ」というのは、いったいなにを基準とし、どこから与えられるというのだろうか。いかなる事実にも基礎を置かず、ただ「正しい」というのであれば、それはただの信仰でしかあるまい。

他人を批判するのはもちろん自由である。だが、相手の論をきちんと読みもせず、勝手に自分で短絡させておいて、あれこれと関係ないことをえんえんと書き連ね、それを「批判」だの「反論」だのと称されても、それはちょっと勘弁してほしい。「勝手にやっててください」としか、言いようがない。

ところで、レヴィ=ストロースマルクスから受けた影響について、こんなことを書いている。

 十七歳の頃、わたしは夏休みに知り合った若いベルギー人の、いまは外国駐在の大使になっている社会主義者からマルキシズムの手ほどきを受けた。マルクスを読むことに熱中したがゆえに、わたしはこの偉大な思想を通じて、カントやヘーゲルの流れをくむ哲学にもはじめて触れることができた。ひとつの世界がわたしの前に開けたのだ。そのとき以来、この熱情は失われることなく、社会学とか民族学の問題を解明するときには、たいてい『ルイ・ボナパルトの霧月十八日』や、『経済学批判』のいく頁かを開いて、前もってわたしの考察に生気を与えてから取り掛かるようになった。

 しかし、マルクスが歴史のかくかくの発展を正しく予見したかどうかは、問題ではない。物理学が感性から出発して体系を立てるものではないのと同じく、社会科学は事象の面に体系を立てるものではないことを、マルクスはルソーについて、決定的と思える形でわたしに教えてくれた。つまり、社会科学の目的はモデルを組み立て、その特性と、それが研究室で示すさまざまな反応の仕方を研究し、ついで、こうした観察の結果を、経験として経過することがら、予測とはるかにかけはなれているかもしれないことがらを解釈するにあたって、適用することにある。

講談社文庫版 『悲しき南回帰線』(室淳介訳)より


最後の部分から連想するのは、たとえばこんなところ

 何事も初めがむずかしい、という諺は、すべての科学にあてはまる。第一章、とくに商品の分析を含んでいる節の理解は、したがって、最大の障害となるであろう。そこで価値実体と価値の大いさとの分析をより詳細に論ずるにあたっては、私はこれをできるだけ通俗化することにした。完成した態容を貨幣形態に見せている価値形態は、きわめて内容にとぼしく、単純である。ところが、人間精神は2000年以上も昔からこれを解明しようと試みて失敗しているのに、他方では、これよりはるかに内容豊かな、そして複雑な諸形態の分析が、少なくとも近似的には成功しているというわけである。なぜだろうか? できあがった生体を研究するのは、生体細胞を研究するよりやさしいからである。そのうえに、経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかぬ。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならぬ。

岩波文庫版 『資本論』 第一巻 第1版の序文


なお、これは向坂逸郎訳となっているが、実際には国民文庫版 『資本論』 と同じく、岡崎次郎がほとんど訳したものらしい。岡崎次郎については、以前にこんなことを書いた。


 岡崎次郎はどこへ消えたのか


追記(2009/9/14)
上で引用したレヴィ=ストロースの文は、下の記事でも引用していた。
 レヴィ=ストロース、マルクス、さらにサルトルについて


http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090915/1252950872