なんかうんざり

「規定はされるが還元はされない」というのが、そんなに難しいのかいな。
ひとつ例をあげるなら、カント先生だって、人間の認識はその能力によって規定されるが、その内容は対象によって与えられる、と言ってます。
だから、カントによれば、人間による認識は理性と感性を含めたその認識能力に規定はされるが(もし、その能力を超えようとするなら、認識は必然的に誤謬におちいることになる。それが、カントによる「形而上学」批判の意味)、その内容は認識能力に還元できないってことになる。なぜなら、認識の対象は意識の外部に存在するのだから(内観はとりあえず別にして)。

我々の心意識の受容性は、心意識がなんらかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受けとる能力である。そこで我々がこの受容性を感性と名づけるならば、これに対してみずから表象を生みだす能力、即ち認識の自発性は悟性である。我々の直感が感性的直感以外のものであり得ないということ、換言すれば、我々が対象から触発される仕方以外のものを含まないということは、我々人間の自然的本性の必然的な在り方である。これに反して、感性的直感の対象を思惟する能力は悟性である。感性と悟性……この二つの特性は、そのいずれかを他にまさっているとすることはできない。感性がなければ対象は我々に与えられないだろうし、また悟性がなければいかなる対象も思惟されないだろう。内容のない思惟〔直感のない概念〕は空虚だし、また概念のない直感は盲目である。
カント『純粋理性批判岩波文庫 上巻 P124

一般論理学はもともと認識の内容についてはわれわれにまったく教えるところがなく、ただ悟性と一致する形式的条件、つまりいずれにせせよ対象にいささかもかかわりのない条件だけを示すに過ぎない。それだから少なくともその言い分によるとわれわれの知識を拡充し拡大すると誇称するものの、しかしそのために一般論理学を道具(オルガノン)として使おうとする不当な要求は、けっきょく何ごとによらずいくらかでももっともらしく主張したり、あるいはこれに対して勝手な論駁もするというような饒舌に終わらざるを得ないのである。
前掲書 P133


まあ、これはひとつの例であるが、それでも分からんというのなら、もうお手上げ。そもそも、人間が生物としての自己の条件に規定されてるかどうかなんて、自分の脳みそでもいじってみればすぐに分かることだろうに。
あと、id:letterdustは何でもかんでもごちゃごちゃにしない、人の言ってないことまで勝手に読み込まないように。