「野生の思考」から

http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090903/1251954911


上で引用されている「西洋文化においては、まるで個人がそれぞれ自分の個性をトーテミズムとしているかのようである。個人の存在を所記とすれば、個性はその能記なのである。」につながる、ちょっと前の部分

 このような細かな説明が不可欠だと考えたのは、種の観念や個体の観念が社会学的でかつ相対的な性質のものであることを、誤解される心配なしに強調するためである。生物学的観点から見るならば、同一人種(人種という用語が明確な意味を持つと仮定して)に属する人間たちは、同じ一本の木の上に芽ぐみ、開花し、しぼむ個々の花にくらべられる。その花はいずれも一品種の標本である。同様に、種ホモサピエンスの成員はすべて、論理的には任意の動植物の種の成員に較べられることになる。ところが、社会生活のために、この体系には奇妙な変換が行われる。すなわち、社会生活の中では、生物学上の各個体がそれぞれ個性を発達させることになる。個性という観念が出てくれば、もはや一品種の標本という考え方はあてはまらない。それは、おそらく自然界には存在しない品種もしくは種の一タイプである。(熱帯地方には、ときにそのきざしになるものがあるけれども。)個性とは、いわば「単一個体的」観念である。ある個人が死ぬとき消滅する個性とはなにかと言えば、それはいろいろなものの考え方と行動のひとつの綜合体であって、まったく独自でかけがえのないものである。

『野生の思考』P257-258


そもそも、レヴィ=ストロース文化人類学者であって生物学者ではない。であるなら、彼がここで言っている「種としての個体」という概念も当然ながら、生物学的な概念ではないし、生物学でいう「種」という概念との直接の関係もない。『野生の思考』に収められた「種としての個体」というこの章の全体を読まずとも、レヴィ=ストロースが何者であるかを知ってさえれば、そのくらいのことは分かりそうなものだが、「優生学*1がどうのとか、なんだかずいぶんと頓珍漢な「反論」をしてる人がいるもよう。

そもそも、人間が人間たるゆえんは、たんなる自然史、すなわち生物としての進化のうえに、社会と文化を伴った本来の意味における歴史という二重の歴史を背負っているからであり、それはすなわち人間が人間となったときから、観念なるものをつねに分泌しており、物質的生活と観念的生活の二重の生活を生きていることの帰結なのである。言うまでもなく、それは近代に限ったことではない。

ちなみに、上で引用したレヴィ=ストロースの「社会生活の中では、生物学上の各個体がそれぞれ個性を発達させることになる」という一節は、手稿のまま生前は公開されなかった「経済学批判への序説」(マルクス)の中にある、「人間は最も文字どおりの意味でゾーンポリティコンである。たんに社交的な動物であるだけでなく、ただ社会の中だけで個別化されることのできる動物である」という部分を踏まえているのではないかと思う。

あと、同じくマルクスの「経済学哲学草稿」には、「類的存在」(Gattungswesen)という語句が頻出する。この「類=Gattung」とは当時ヘーゲルやその弟子などがよく使っていた言葉だそうだが、生物学で言う「種」と同じであり、レヴィ=ストロースのいう「種としての個体」という表現もこれを受けているのではあるまいか。

 人間は類的存在である。というのは、人間が類を、人間自身の類をもその他の事物の類をも、実践的および理論的に人間の対象にするからというだけでなく、むしろ ―― そしてこれはただ同じ事柄に対するもうひとつ別な表現にすぎないが ―― むしろまた、人間は自分自身に対して現在の生きた類に対してのようにふるまうからであり、自分自身に対して、ある普遍的な、それゆえに自由な存在に対してのようにふるまうからである。

第一手稿「疎外された労働」より


疎外論」に代表される、「経哲草稿」を書いた当時のマルクスの思想については、当時の僚友だったヘスの影響が強いとする広松をはじめ、いろいろな議論があるがそれは省略。フランスで「経哲」をはじめとする初期マルクスを先駆的に研究したのは、『日常生活批判』などを書いたアンリ・ルフェーブルか。ルフェーブルはレヴィ=ストロースより七歳上。サルトルよりは四歳上ということになる。もっともルフェーブルは、アルチュセールフーコーに代表される、登場間もないいわゆる「構造主義」に対しては、サルトル同様批判的だったのだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20090904/p1優生学」という非難は撤回したらしい。しかし、いずれにしても「多様性があると生存競争的に有利である」なんて主張は誰もしてないのだから、的外れであることに変わりはない。