映画「マトリックス」と主観性の哲学

秋の日といっても、「ヴィオロンのため息」 も 「鐘の音」 も聞こえてこない。聞こえてくるのは、せいぜい近くでやっているマンション工事のとんてんいう音と、ときおりやってくる灯油売りの 「たきびだ、たきびだ」ぐらいである。

 昨日はやや雲が多くて、空のあちらこちらにちんまりとした積雲が、まるでデスラー総統率いる宇宙艦隊のようにぷかぷかと浮かんでいた。よく見ると、日が射す上側が白く輝き、地上に近い底のほうは黒く翳っている。秋になると太陽の軌道が低くなって影が伸びるのだなあというのもそうだが、こういう細かいことに実際に気づくようになったのも最近のことである。もっともこれはつまり、単に齢のせいなのかもしれない。

 エンゲルスの 『空想から科学へ』 の中に、「プディングの味は食べてみれば分かる」という語句がある。この言葉は、しばしばエンゲルス自身の言葉として引用されたりもするが、本来はそれ以前から使われている諺のようなものであって、古くはセルバンテスの 「ドン・キホーテ」 の中にも使われているのだそうだ。

 この言葉は、昔から 「やってみなくちゃ分からない」式の素朴実践主義を合理化するさいに使われる。確かに、人間にはジタバタする以外にどうしようもない状況というものも存在し、それによって、なんとかなるというような場合もあるものだが、ここでエンゲルスが言いたかったのは、「真理」 というものは 「主体」=「主観」という意識の枠内だけでは決定しえないという、ごく単純な真理である。

 もちろん実践の成否の解釈も、ある程度は人間の主観によって影響を受けるものであるし、多少予想と違った結果になっても、人間はいろいろと理屈をつけて自分をごまかすこともできる。だから、これは単純に 「思惟」に対する 「実践」 の優位などということで片付くことではない。「思惟」 と 「実践」とは主体と客体の関係として、まさに禍福のごとくに絡み合った関係にあり、そのように互いに絡み合いながら進行する中でこそ、「真理」というものは立ち現われてくるのだろう。

 『荘子』 には 「胡蝶の夢」 という話があり、デカルトの 『省察』 には 「これらのことを、さらに注意深く考えてみると、覚醒と睡眠とを区別しうる確かなしるしがまったくないことがはっきりと知られるので、私はすっかり驚いてしまい、もう少しで、自分は夢を見ているのだ、と信じかねないほどなのである」 という一節がある。とはいえ、通常は夢の世界というものは、非合理的で一貫性に欠けるものである。

 キアヌ・リーブスが主演した映画 「マトリックス」では、人間はみな人工子宮の中に閉じ込められて、どでかいコンピュータにつながれており、ケーブルで脳に直接送られる刺激によって、普通の世界で普通に活動し暮らしているような幻覚を与えられ、錯覚の中で生きているという設定になっている。

 こういうことが、近い将来に現実になりうるかどうかまでは分からないが、このような設定には、かつてレーニンが 『唯物論と経験批判論』でマッハ主義の先祖として取り上げた、18世紀イギリスの哲学者バークレーの所説を思わせるところがある。バークレーという人は一般にはロックとヒュームをつなぐ存在ということになっているが、その著書 『人知原理論』 の中で、次のようなことを言っている。

 

およそ天の群れと地の備えとの一切は、一言で言えば世界の巨大な仕組みを構成するすべての物体は、心の外に少しも存立しているのではなく、物体があるということは知覚されること、すなわち知られることであり、したがって、物体が私によって現実に知覚されないとき、換言すれば私の心のうちに存在しないとき、あるいはまた、他のなんらかの被造的な精神の心に存在しないとき、それら物体はまったく存在しないか、もしくはある永遠な精神の心のうちに存立するか、そのいずれかでなければならないのである。

 たしかに人間が直接に感知する世界というものは、各自の感覚によって捉えられた世界にすぎない。ノミにはノミの感覚によって形成された世界があり、イヌにはイヌの感覚で形成された世界があるように、人間には人間の感覚によって形成された世界がある。また、感覚に歪みがあれば、その人にとっての世界にはなんらかの歪みが生じる。だが、そのような歪みの発生こそが、そのような構成された世界とは別に、その完全な認識が可能かどうかはともかくとして、それ自体としての客観的な世界が存在していることを証明している。

 音とは耳という感覚器によって捉えられた空気の振動であり、色とは目という感覚器によって捉えられた電磁場の振動である。暑さや寒さもまた、皮膚の感覚によって捉えられた分子などの振動であるにすぎない。だから、知覚する主体を世界から取り除いてしまえば、存在するものは振動する電子や原子、分子の集合と様々な波長の電磁波などでしかなく、そこには色も音も暑さや寒さも存在しない。だが、そのような知覚された 「現象」 が消滅したからといって、世界そのものが消失するわけではあるまい。

 上に引用した文で、バークレーは人が目を閉じ耳をふさいで、すべての感覚を遮断してしまえば世界は存在しないのかという問いに対し、「それら物体はまったく存在しないか、もしくはある永遠な精神の心のうちに存立するか」 という、二つの答えを提示している。

 前者の答えは、むろんどう考えてもあまりに常識に反している。だから、彼自身の本当の回答は後者のほうである。そこで彼が言っている 「ある永遠な精神の心」 とは、いうまでもなく全知全能の神様のことである。

 つまり、彼の主張は、われわれが皆いっせいに気を失いあるいは眠ってしまっても、またたとえ人間を始めとするすべての感覚する生物が死滅したとしても、世界が消滅せずに存在しうるのは、神様が一日24時間、一年365日、夜も昼も絶えず全世界、全宇宙をそのすみずみまで認識しているおかげだということなのである。

 だが、よく考えてみれば、これは1つの難問を別の難問で置き換えて、ただ先延ばしにしたにすぎない。哲学者であると同時に、イギリス国教会の敬虔な聖職者でもあった彼には、神様が世界の認識という大切な職務をさぼって居眠りすることも、ましてや神の非存在や神の死などといったこともとうてい考えられなかったことだろう。

 しかし、神様がその精神による知覚の対象としているものとは、いったいなんなのだろうか。また、もし本当に神様がその認識をさぼったら、そのとき世界は崩壊するのだろうか。

 いうまでもなく、神の存在を哲学的に証明することなどは不可能なことである。だがそもそも、彼がこのような説を提唱するにいたった動機というものが、ニュートン力学に象徴される機械的世界観の登場によってその存在意義を失ったかに見えた神様に、世界の認識という大切な役目を与えて、その居場所を守ることにあったのである。

 

真昼に目をひらけば、見るか見ないかの選択や視界に現れる特定対象の決定は、私の力能のうちにない。聴覚その他の感官についても同様で、これらの感官に印銘される観念は私の意志の創造物ではない。それゆえ、そうした観念を生むある他の意志ないし精神があるのである。


 つまり、彼の哲学によれば、人間とは神という巨大なコンピュータにつながれ、「マトリックス」 の中で 「主観性」という夢にまどろんでいる存在なのである。バークレーはもちろん、この映画とは違って、善意の塊りであり悪意など微塵も持っていない神様が人間を騙したりするはずはないというだろうが、それもまた保証された話ではない。