今年も「憂国忌」の季節がきた

 数日前に、大陸から打ち上げられた木枯らし一号が列島を吹き抜けたそうで、季節は秋を駆け抜け冬に向けて一気に加速しつつあるようだ。今年はどうも暑い夏と寒い冬の二極に極端に分化しそうな感じであるが、世界的な石油価格高騰の影響で、灯油の値段も早くも上昇しつつあるようだ。

 毎年この時期になると、街角の電柱に軍服姿(?)の三島のポスターが登場する。だが、今年のポスターの写真は、なんとなくどこかが見慣れた三島の顔と違う。あの特徴的なぎょろぎょろ目玉とも違う穏やかな目をしているし、眉がげじげじでもない。ほおもこけていないし、あごの先も割れていない。顔全体がなにかふっくらした感じなのである。
 
 三島という人は、成年を過ぎてからの超人的な努力で筋肉をつけた人だが、もともと太る体質ではなかったようで、どの写真で見ても顔は骨ばっている。いくら豪放磊落なふりをしても、生真面目でどこか神経質そうな感じが隠せないのだが、この写真には、なにやら大人風の雰囲気を出すための微妙な修整が施されているような気がする。

 考えてみれば三島が死んだのは37年も前のことであり、もしまだ生きていれば82歳ということになる。80過ぎの三島由紀夫というのは、ちょっと想像がつかないが、これだけの歳月がたてば、当然生前の三島と深い付き合いがあった人もどんどん齢をとっていき、生きている人も少なくなってくる。なにしろ、あの美輪明宏だって、もう70を過ぎているのだ。

 市谷にある自衛隊駐屯地の総監室に乱入したすえの割腹自殺という異常な死のゆえに、その直後から彼を 「憂国の英雄」 視する人たちはいたようだが、生前の実像を知らぬ人ばかりになってくると、ますます一種の 「神格化」 のようなものが進むものなのかもしれない。

 たしか開高健との対談ではなかったかと思うが、小説を書き進めていくにつれて、登場人物が勝手に動き出すみたいな開高の言葉に対して、三島は激しく反発し、いや、そんなことはない、自分は作品の最後の文章まで決めてから書く、というようなことを言っていた。

 開高が言っていることは別にそう珍しいことではなく、多くの小説家などが口をそろえて言うことなのだが、この三島の言葉は三島の文学というものの特徴をよく表しているように思える。 『英霊の声』については、なにかに憑かれたような気持ちで一気に書き上げたというようなことを言っていたが、そういう経験というのは、彼にはたぶん非常に稀なことだったのだろう。

 三島由紀夫は一日の執筆時間とその量をきちんと決め、毎日銀行員のように計画的に仕事を進めていたのだそうだ。その几帳面さと意志の強さは、成年後の肉体改造にも現れている。こういう性格は、官吏の家に生まれ、その家を継ぐ者として育てられてことにもよるのだろうが、この意志の強さは尋常なものではない。

 三島が頭脳の優れた人であったことは言うまでもないが、彼は同時に努力の人でもあった。武田泰淳は死後に彼のことを 「息つくひまなき刻苦勉励の一生」 と評しているが、その一生には、つねになにかに追い立てられているような焦燥感が感じられる。

 三島は野坂昭如を天才だと激賞したそうだが、野坂や深沢七郎のような奔放さは、いくら万巻の書を読み、努力を重ねたとしても得られるものではない。そういう天分こそ、彼に最も欠けたものであり、彼が最も羨望したものなのだろう。

 おそらく頭脳優秀な三島には、自分には 「天才」 としてのなにかが決定的に欠けているということが、最初から分かっていたのだろう。彼の「息つくひまなき刻苦勉励の一生」とは、まさにそのような努力しても得られぬものを、なんとか努力して手に入れたいという焦慮の表れではなかったのかという気がする。

 たぶん、三島はしだいに、戦後の自分の人生と作品が、すべて 「にせもの」ではないのかという思いに苦しめられるようになっていたのだろう。渋沢龍彦のように、まがい物の 「人工の美」でなにが悪いか、と開き直るほどの図太さがなかったところに、彼の悲劇があり、そのため、「知行合一」を掲げる陽明学だとか、「武士道とは死ぬこととみつけたり」 という 『葉隠』などのような、曖昧さを許さない純粋さのみで出来上がった、結晶のような思想にひかれるようになったのかもしれない。

 45歳での死というのは、つまりは彼が若い頃から憧れていた 「夭折」 に間に合う、ぎりぎりの年齢だったということなのだろう。「早熟の天才」 として名を残すことが、おそらくは戦争中の彼の唯一の望みだったのにちがいない。