ピーターかペーターかペテロかピョートルか

ヨーロッパ系の人名というものは、聖書などの古い書物に由来するものが多い。したがって、一見違うように見える名前も、元をたどれば同じということが多く、同じ人の名前が、その国の言葉によって様々に変化して呼ばれていたりする。

たとえば、カフカの 『審判』 の主人公であり、最後は理由も分からず二人の男に 「犬のように殺された」 ヨーゼフ・K のヨーゼフとは、英語ではジョゼフ、スペイン語ではホセ、イタリア語ではジュゼッペ (つまりピノキオを作ったおじいさん)、ロシア語ではヨシフ(スターリン!) となる。
 
この名前は、もとは聖書に出てくるアブラハムの子イサク (あやうく親父どのによって、神への生贄にされそうになった人) の子ヤコブのそのまた子であるヨセフや、イエス様の血のつながらない父親である大工のヨセフからきている。またジョンやジャン、ヨハン、イワンは、もとはヨハネであり、つまりはわがままなお姫様サロメの願いで首をはねられた洗礼者ヨハネ (ヨカナーン) や、福音書や黙示録にその名前が残されている、イエスの12使徒の一人と同じ名前である。

こういった呼び方の違いは、ピーターかペーターかとか、デビッドかダヴィッドかぐらいならまだいいが、チャールズか、シャルルか、カールか、カルロスかとか、キャサリンか、カザリンか、エカテリーナか、カタリナかとかになってくると、いささか厄介である。

実際、歴史上の同じ人物が、本によってはカール大帝やチャールズ大帝、シャルルマーニュなどと、いろいろな名前で呼ばれていたりする。アメリカを発見したということになっているコロンブスも、日本以外の国ではコロンとかコロンボなどと呼ばれるほうが多い。であるから、ピーター・フォーク演じるかの「刑事コロンボ」も、実はコロンブスの末裔だったのかもしれない (うそです)。

日本では、最近は原則としてその人のもともとの国での呼び方にあわせるということになっているようだが、これもそう簡単ではない。というのも、国境を越えた人の移動が珍しくない欧米では、ドイツ系やロシア系、イタリア系のフランス人やアメリカ人などのように、本来の出身地と活躍した国とが食い違う例が少なくないからである。

たとえば、フランス啓蒙思想家の一人で 『自然の体系』 という本を書いたドルバック (d'Holbach)という人がいるが、この人はもともとドイツ人であって、ドイツ時代の名前はホルバッハである。運動会で必ず流れる「天国と地獄」の作曲者であるオッフェンバックも元はドイツ人であるため、ドイツ語読みでオッフェンバッハと呼ばれることもある(ただし、これは本名ではなく、父親の出身地から採ったのだそうだ)。


今はどうだか知らないが、以前塾で教えていたころの中学生の英語の教科書 (たしか開隆堂が出していたものだったと思う)に、ジーンズの考案者であるリーヴァイ・ストラウスの話が出ていた。彼が創設したリーヴァイスといえば、言うまでもなくいまや世界的なジーンズの大ブランドである。

リーヴァイ・ストラウスとは Levi Strauss と書く。この綴りを見たときは、正直にいって思わずいすから転げ落ちそうになった。むろんリーヴァイスもリーヴァイ・ストラウスも、名前ぐらいは前から知っていたのだが、ジーンズのブランドなどに興味はなかったので、その綴りまでは気にしていなかったのだ。

いうまでもなく、Levi Strauss とは、かの人類学の泰斗レヴィ=ストロースのことである。この事実に気づいたときはずいぶんと興奮したのであるが、なにぶん相手は中学生である。レヴィ= ストロースなどと言っても、知っているはずはないし、受験に役立たぬことを教えてもしょうがない。

そういうわけで、このことは長年ひっそりと自分の胸の中にだけしまっていたのだが、先日 Wikipedia のリーヴァイ・ストラウスの項を覘いたら、「構造主義人類学者クロード・レヴィ=ストロースとは遠縁に当たる」 と書かれていた。

つまり、この二人が同名であることは、知っている人はちゃんと知っていたのであった。いささか、残念な気がしたが、考えてみれば当たり前のことであった。


こういう欧米人の名前の読み方には、明治の人もずいぶんと苦労したらしく、こんな川柳も残っている。


 ギョェテとはおれのことかとゲーテいい


この作者である斎藤緑雨という人は、若くして亡くなった樋口一葉を生前に高く評価し、いちはやく世に紹介した人なのだそうだ。

ちなみに、この記事のタイトルは、翻訳家である青山南という人の、『ピーターとペーターの狭間で』 という著書の題名からのパクリです。

http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20080117