『社会改良か革命か』より

国公立大入試の二次試験(前期日程)が始まったそうである。自分のことを振り返れば、共通一次センター試験もなかったある意味牧歌的な世代であり、文字どおり入試は一発勝負だったのであるが、最近の受験生はなかなかたいへんのようである。

そこで、受験生の諸君に、次のような言葉を贈ろうと思う。

 

 プロレタリアートの権力奪取がひきつづいて起こるだろうような政治的危機の過程の中で、また長期にわたるしつような闘争の炎の中で、はじめてプロレタリアートは、自分自身が終局的な大変革を遂行する能力の所有者となるのに必要な程度の政治的成熟に到達することができるのだから、プロレタリアートの時期の 「はやすぎる」 攻撃は、じつにそれ自身、終局的な勝利の政治的条件を作り出すひとつの、しかも非常に重要な要因なのだ。

 それゆえに、国家権力の時期の 「はやすぎる」 掌握は避けることができないことなのだ。こうして国家権力に対するプロレタリアートの時期の 「はやすぎる」 攻撃そのものは、終局的勝利の時期を招来し決定する重要な歴史的要因であることが明白になる。

 だがこのように、プロレタリアートは国家権力の時期の 「はやすぎ」 た獲得をなす以外にまったくどうしようもない、あるいはことばを変えて言えば、プロレタリアートは、終局においては国家権力を永久に奪い取ってしまうために、一度ないしいくたびか、時期の 「はやすぎる」権力奪取を絶対にやらなければならないのである。だから 「はやすぎる」 権力奪取に反対することは、国家権力を自己の手におさめるためのプロレタリアートの努力一般に反対することにほかならない。

                                            ローザ・ルクセンブルグ『社会改良か革命か』(1900)


ローザ・ルクセンブルグが言うように、どのような闘いの場合でも、終局的な勝利にいたる過程においては、緒戦の敗北は必至なのであり、むしろ、そのような緒戦の敗北を通してのみ最終的な勝利は確保されるのである。

であるから、たとえ緒戦において敗北したとしても、「今日の試験は失敗した」などと思い悩む必要は決してないのであり、それを糧とし教訓とすることで、最終的な決戦において勝利しさえすればよいのである。ことわざにも、「最後に笑うものが最もよく笑う」 というくらいである。

むろん、緒戦において決定的勝利を収めるのなら、そのほうが良いにこしたことはない。それから、ローザのこの言葉は、ただ漫然と敗北を続けていても、いつかは必ず勝てるさ、というような安易な意味に解釈してはならないことは言うまでもない。