塩見孝也にはあきれた

http://homepage2.nifty.com/patri/column/2007_12_25_united_red_army.html

この「共産主義化」は、上にかぶせられたベール、カムフラージュであり、この事件の真の原因は、野合「新党」を、監獄にいた、僕等赤軍派指導部や、革命左派指導部に隠れて、こっそりと、永田さん、森君が無理やり作ろうとして、野合ー「新党」結成に反対する人々を、スターリン主義特有の恐怖政治、粛清、殺し、で意識的に抹殺したこと。

スターリン主義思想を正当と考え、分派ー私党の「新党」でっち上げの権力闘争(指導権闘争)を行ったことから発生したものです。

こう、その根底的にして、しかも直接的な動機を、スターリン主義とその思想、その党至上、実は指導者保身の指導者至上、指導者専制の粛清肯定思想に設定しない限り、この事件は説明つかず、全く非合理な、つぎはぎだらけの説明しか出来ず、民衆運動の可能性を閉ざし、暗くして、混乱させてゆくばかりになります。

こう問題をこう捉えれば、カンボジアポルポト派の悲惨な大規模な粛清事件やその他の毛沢東思想派の残虐な事件、或いは中国本土の文革期の大量な粛清、つるし上げ事件、或いは、朝鮮戦争、第一次安保闘争期の、日本共産党が受け入れた「51年綱領」に基づく中国式武装闘争路線の採用から発生した諸事件、 戦前の「32テーゼ」に基づく敗北やこの種の事件ら、一連の民衆運動の権力闘争を挑むか、否かの、日本民衆の自主性が問われる危急存亡の際の、自主性無き、対外盲従作風から発する日本民衆運動の負の遺産の伝統の一環であったことは容易に明瞭になり、極めて明白な説明がつきます。
 
粛清思想は、赤軍派やブント運動には無い思想です。ブントや赤軍派は、このような悪しき思想、作風を批判して誕生した組織です。


たしか、塩見も一時は毛沢東主義に傾斜したはず。結局、いつのまにか毛派と森・永田だけに責任を押し付け、おまけに、「自主性無き、対外盲従作風から発する日本民衆運動の負の遺産の伝統」なんてものまで持ち出したうえ、「ブント万歳」に舞い戻って、自分の責任はほおかむり。こういう無責任な「無限転向」と、自分だけはいつも正しいという論理は太田龍とたいしてかわらん。
ブントというのが一種のいい加減さを特徴にしていたというのはそうかもしれん。しかし、「前段階蜂起」だの「国際根拠地建設」だのといった派手な花火を打ち上げたあげくに、下部の構成員らを無謀な闘争に追いこんでいったことの責任ぐらいはとらにゃいかんでしょ。「連赤」の悲劇だって、その延長上にあるわけだし。
その責任は、20年務所に入ってたからって、帳消しになるもんじゃないだろう。

http://www3.diary.ne.jp/user/337711/
こんなものもあった。あれあれ、同窓会ですか。


追記:ブントと革命左派の違いについて言えば、ブントの方がどこかお気楽でガキ大将的ノーテンキ性を持っていたのに対し、革左のほうがよりくそ真面目だったということ。つまり、より「倫理」的で自分の言葉に「誠実」であろうとする者のほうが、より大きな害悪をなすということの典型的な例でもある。事件の大きな要因が毛沢東主義の非理論的な悪しき精神主義=「倫理主義」にある点では、塩見の愚痴も分からぬではないが。