話が進まない

人によって、ものの見方、感じ方、考え方といいうのが違うのは当然のことだ。
それは、言うまでもなく個人個人のものの見方や感じ方は、その人その人の育った環境や受けた教育、様々な経験・体験、その他のなんやかんやによって、形成されてきたものだからだ。
だから、すべての人の感じ方は、多かれ少なかれみな偏向しており、なんらかの「バイアス」が掛かっている。
なんの偏りもバイアスも持たず、すべてのものごとを「公正中立」に見たり、感じたりできる人など、この世には存在しない。
そして、自分が無意識に持っているそのような「バイアス」について、気付かされてくれるのは、言うまでもなくつねに他人の意見であり、違う見方をしている他人の見方、感じ方である。


人によって、ものの見方は様々です、だって。んなこたぁ、最初から分かっている。
「あなたはそう感じたのですね」
「私はこう感じました」
「はい、ではさようなら」では、つまらんだろう。


他人の見方との大きな食い違いに気付いた人は、自分はなんで人と違うそういう「見方」、「感じ方」をするのか、ようく考えてみればいい。
「ものの見方はひとそれぞれ」で終わらせてしまうのは、「人の見方はさまざまです」ということを盾にとって、自分が持っている様々な「偏見」を正当化し、そこにいつまでも居直ることにしかすぎまい。


なんか、前も同じようなことを言った気がする。しかし、なんでいつまでも同じところをぐるぐる回っているのだろう。頼むよ、しかし。


追記:5/22
本当の「寛容」とは、単に「あなたはあなた、わたしはわたし」というだけのことではない。
それでは、単に「私はあなたのことにかまわないから、あなたも私のことにかまわないでね」ということにすぎない。
そんな「あなたはあなた、わたしはわたし」という互いのコミュニケーションを拒否した論理と、「連帯」だの「共闘」だのというご立派なスローガンとが、どうして両立できるわけ?
そういうふうに言っている人は、そこんところの、それこそ絶対的な矛盾にどうして気付かないのだろう。