「私闘」についてのメモ

「私闘」なる言葉が一般に否定的なものとして使われ、またそのようなイメージがついてまわるのは、通常この言葉が、政治家のような公人が、「公益」を建前とし「公益」を隠れ蓑としながら、実は個人の私的利益追求のために行う争いを指すものとして使われているからだ。その限りでは、そのような争いが忌むべきものであることは言うまでもない。
しかし、公人でもない私人により、「公益」を掲げずに、彼個人の利益のために行われる争いが、「公益」追求のために行われる争いよりも、一義的に低いものであるとか、忌むべき劣ったものであるとみなされるべきではない。
そのような見方は、ダム建設や空港建設などを名目にした国家による一方的な土地収用に抵抗した人々らの戦いを、社会全体の「公共の利益」に対する私的利害にもとづいたエゴの戦いとして描き出し非難してきた見方と同じである。
「封建時代」ならいざ知らず、個人による自己の利益をかけた争いは、その利益が正当なものである限り、私的な争いであっても、けっして不当な忌むべき争いとみなされるべきではない。
「私闘」なる言葉にいまだに否定的イメージしか持てない人たちは、個人の私的利害を「公益」よりも無条件で劣ったものとし、そのような争いを無条件で忌むべきものとする、黴の生えた「滅私奉公的」イデオロギーに侵食されているからなのではないか。


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