感情の共有は可能なのか

私の怒りは私の怒りであって、あなたの怒りではない。あなたの怒りはあなたの怒りであって、私の怒りではない。

私の悲しみは私の悲しみであって、あなたの悲しみではない。あなたの悲しみはあなたの悲しみであって、私の悲しみではない。

「怒り」や「悲しみ」といった感情は、もっとも個人的なものであり、その個人にこそ帰属すべきものである。そのような感情に尊厳が存在するとすれば、それはそのような感情が、けっして他者には譲渡しえない固有のものだからではないのか。

他者がなしうることは、そのような個人の「怒り」や「悲しみ」に対して可能な限り想像力を働かせると同時に、そのような他人の「怒り」や「悲しみ」を、その者に固有のものとして尊重することだろう。しかし、それは他者の感情の「共有」や「共感」とイコールではない。

大事なのは、感情を「共有」することではなく、その他者の感情の根本にある体験に、可能な限りの想像力を働かせることだ。そのような想像力を欠落させた、表層的な感情の「共有」など、単なる情動の伝播であり伝染にすぎない。いや、むしろそれは、それぞれの個人の勝手がってな主観性に基づいた、ただの思い込みであり、自己の感情の投影にすぎないのではないか。

そのような感情の「共有」が可能であるとすれば、少なくともそのような感情の対象について、同一の記憶や経験が共有されていなければなるまい。共通の体験という基盤を欠いた「共感」はすでに欺瞞であり、その者に固有の怒りや悲しみからその固有性を剥奪し、その者から固有の感情を収奪することではあるまいか。それは、「〜の怒りをわがものとして」といった、かつてはやった陳腐な言い回しが、政治党派による自立した社会運動への介入と引き回しの口実であり粉飾でしかなかったことを考えても明らかなことだ。

具体的な記憶や経験の共有に根ざさぬ、「怒り」や「悲しみ」といった感情の共有は、それ自体イデオロギー的な欺瞞にすぎない。そのようにして共有された「怒り」や「悲しみ」といった感情は、具体的な記憶や経験に根ざすものではなく、「幻想」として、あるいは「神話」や「物語」として、イデオロギー化された虚偽の「記憶」や「経験」に基づいて成立したものにすぎない。

こけおどしの身振り手振りに満ちたフューラーの演説や、彼の党が唱えた「血と土の共同体」というイデオロギー、さらにはニュルンベルクの党大会に翻った鉤十字の旗やのぼりに感動の涙を流した者らもまた、欺瞞的な感情の「共有」に酔いしれていたのではなかったのか。