詭弁を弄しているのはいったい誰なのだ

しかしねえ、自分たちがすぐに理解できないことは全て「問題点」だと信じて疑わない自分たちの認知の歪みについて考えてみようとしないのかね。とりあえず私とかその他の人間を馬鹿だということにしてそれで終わりとしたいみたいだけど、自分たちがものごとをわかってないだけだとわからないんだろうか。
そんなこと言ってたら、たとえば「国民国家という幻想」なんてフレーズを使った瞬間にネット右翼に炎上させられても仕方ないってことになるんだよ?そんなこともわからんのかね?本当に君たちは自分で自分たちを窮屈な立場に追い込むような偏狭な価値観を主張してるという自覚が全然ないんだね。

加藤尚武による丸山批判のコメント欄より


ある問題に関して前提となるべきことの大切さを知っているがゆえに、それが欠落している議論に含まれる問題点を指摘した批判と、ある論議で前提となっていることを知らない、おのれの無知だけを根拠にした者による明後日向いた頓珍漢な「批判」とを、いったいどうしたら一緒くたにできるのだ。
前者は前提の大切さを知っている者による、その大切さを理解しているがゆえの批判であり、後者は無知な者による、おのれの無知を棚上げにしたただの難癖である。
そのような「前提」の指摘は、それが「当たり前」「分かりきったこと」であるからといって、無意味だということにはならない。世の中、いくら「当たり前」「分かりきったこと」でも、その「分かりきったこと」を欠落させているがゆえに、とんでもない結論を導き出している愚か者はどこにでもいる。
それに、「分かりきったこと」こととは、まさに分かりきっているがゆえにもっとも忘れやすいことでもある。そのような「分かりきったこと」を忘失したり軽視したがゆえに、重大な過誤を犯すということは、経験を積んだ専門家といえども決して珍しいことではない。だからこそ、そのような「分かりきったこと」を指摘することには、つねに意味があるのだ。「何事も基本が大事」というのは、そういうことである。兼好法師様だって、かの「徒然草」の中で仰っているではないか。
そもそも問題は、単なる一般的な前提の欠落ではない。そのような前提を欠落させた場合、あるいは誤った前提がおかれた場合に、提示されている論理、すなわち、「資源の有限性」(「予算の有限性」と言いかえてもよい)を理由にした「その合目的的な最適配分」という一見それ自体ではなんの問題もないかに見える論理、それもあくまでも緊急手段でしかないトリアージを例に出しての論理がどこへ向かい、またどのように用いられるかということが問題なのだ。論議を呼んだ「ホロコースト」は、id:hokusyuさんによりそのことを最も分かりやすくするために例示されたにすぎない。
なお、ついでに言っておくが、「認知の歪み」だのと、良く分かりもせぬ利いたふうな言葉を振り回すのも、いいかげんにやめたまえ。君があれやこれやの覚えたての言葉を振り回すだけの、ただのハッタリ男にすぎないということは、とうにばれているのだよ。