どこまで続くぬかるみぞ
ここにSokalian氏がずっと居座って、えんえんと管を巻いています*1。困ったものです。
さて、かつてSokalian氏は次のように言ったことがあります。
実際のところ、こういう「最適解」を現実に直ちに適用するのは学問的手続きとしても粗雑なものとしてしか扱われない。学問上の前提の倫理的判断という必要な手続きが省略されているからだ。
トリアージ批判が理解できない理由 (2008/8/11)
一方、hokusyu氏は、「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か (2008/5/23)の中で、次のように書いていました。
さて、「限られたリソースを適切に分配すべきである」という言説について考えてみましょう。こんなこと当たり前です。はっきり言って、これ自体では何も言っていないのと同じです。問題は「適切な配分」とは何かです。
資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる (参照)
経営学者様はこれが肝心だといいます。例として彼は四川大地震をあげました。ぼくもひとつ適切な例を知っています。ホロコーストです。
Sokalian氏は「学問上の前提の倫理的判断」と言い、hokusyu氏は「問題は『適切な配分』とは何かです。」と言っています。どちらも、「適切な配分」を行う場合の前提と、その大切さについて指摘しています。最初に指摘したのは、もちろんhokusyu氏のほうです。したがって、Sokalian氏はhokusyu氏を批判するつもりで、実はhokusyu氏の指摘の正しさを期せずして、言い換えると自分でも知らないうちに肯っていたことになります。
批判している相手がすでに指摘していたこととほとんど同じことを自らも主張しておいて、いったいどうしてそれが相手への批判になるのでしょう。さっぱり分かりません。
ただし、厳密に言うと、その内容はまったく同じというわけではありません。Sokalian氏の関心は、主として「学問上」の手続きの問題に向いています。たとえば、彼は上で引用した文より前の箇所で、「その解を無批判に現実に適用しようと政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる。」と述べています。これは不充分ではありますが、まったくの間違いでもないでしょう(詳しくは、あとで述べます)。
しかし、それもまた、hokusyu氏が「ホロコースト」という政治的行為とその結果を例に挙げてまで指摘したことと、大きく重なります。つまり、ここでもSokalian氏は、hokusyu氏がとうの昔に指摘していたまさにそのことを、何ヶ月もあとになってまた指摘したに過ぎません。なので、それがどうしてhokusyu氏への批判になるというのか、やっぱり分かりません。
とはいえ、hokusyu氏の関心は、Sokalian氏とは違って、単なる「学問上の前提」という手続きの問題よりも、「資源の有限性」を理由とした「その合目的的な最適配分」という論理が歴史的に果たしてきた、そして現在および将来においてもなお果たすおそれのある政治的イデオロギー的な役割にあるように見えます。それは、単なる「学問」の問題、言い換えると「学問」の内部で完結する問題なのではありません。
「学問」も、またその研究者も、いつの時代にあっても、特定の政治的社会的状況の中に巻き込まれています。そのことは、自然科学よりも、むしろ経営学を含めた社会科学や人文科学のほうに、より強く当てはまると言っていいでしょう。Sokalian氏が「学問」の「価値中立性」を主張するのは結構ですが、そのために必要なのは、まず研究者自身が、自らが無意識のうちに帯びている「政治的イデオロギー的価値感」について自覚的であることでしょう。
したがって、厳密に言うとこの問題は、Sokalian氏が「政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる。」と言っているほど単純ではありません。自覚しているかいないかを問わず、どんな研究者も、社会の中で生きている人間として、みななんらかのイデオロギーに染まっています。そして、人間が持っている頭脳も精神もみな一つきりですから、そのようなイデオロギー的な立場、ときには偏向や偏見が、研究室の中に入った瞬間、あるいは社会的問題から学問上の問題に関心が移った瞬間に、魔法の如くに消えてなくなるなんてことはありません。そのことに無自覚であればあるほど、そのようなイデオロギーは、彼の「研究室」と「学問」の中にも無意識のうちに侵入し、その研究と成果にも影響することになるでしょう。
Sokalian氏は「学問やってる人間をなめないでほしい」と、ずいぶんなことを仰っていますが、もちろん「学問やってる人間」は彼だけではないでしょう(私は自分が「学問やってる人間」だなどと、エラソーなことを言うつもりはありません。昔、ちょっと片隅を齧ったという程度に過ぎません)。彼は「学問」の「価値中立性」ということを無条件で信奉しているように見えますが、事実はそう単純ではありません。学問の「価値中立性」というものは、つねに注意し、目標とすべきことではあっても、即自的に、言い換えると無前提で言えることではありません。少なくとも、社会科学においてはそうです。
その意味では、何らかの学問的成果を、「現実に適用しようと政治的に動いた時点で、はじめて問題が生じる」という彼の主張は、いささか単純にすぎます。そのような見方は、あまりに素朴に過ぎると言うものです。そのような問題は、「政治的に」動く以前、すなわち学問そのものやその成果の中にすでに胚胎していたということも決して珍しくはありません。
最近、彼は「どっちにしたって君はアカデミックに無縁であることがよくわかったし、そんな人間が福耳先生を批判する筋合いなんかないね。」*2とのたまわれましたが、その背景に存在しているのは、どうやらこのようないささか素朴に過ぎる「学問」信仰であり、「学者」信仰であるように思います。もっとも、そのような「信仰」は、まだまだ若い初学者がしばしば落ち込みやすいものなのかもしれませんが。
理系の出身であるらしいSokalian氏が見落としているのはそういうことであり、そのことが孕む問題であり危険性です。なお、福耳(id:fuku33)さんについていえば、社会科学系ではあっても、そういう「歴史的社会的」問題、あるいは「政治的イデオロギー的」問題というのは、直接の守備範囲ではないのでしょう。なので、その点について無造作であったことで彼を批判するのは酷かもしれません。しかし、だからといって、hokusyu氏の批判と指摘が無意味だということにはなりません。彼の指摘は、それ自身として意味を持ちます。
皮肉も絡めた厳しい批判を受けた福耳さんが、その批判をただの「難癖」とか「言いがかり」、「揚げ足取り」の類のように感じたであろうことは理解できます。しかし、たとえ自分の守備範囲ではないとしても、他の学問を専攻する者からの指摘に耳を傾けることは、決して無意味ではないし無駄ではないだろうと、私は思います。
なお、福耳さんへの批判にはほかの問題も含まれていますが、その点については触れません。福耳さんについては、多くの批判が集中したことで同情するところもあります。問題の記事からすでに何ヶ月も経っているのに、何周も遅れてきた新参者が口をはさんで、またまた問題を蒸し返すつもりはありません。そもそも私がこの間一貫して指摘してきたことは、福耳さんの問題というよりも、むしろ福耳さんへの批判に対するSokalian氏による誤読と誤解についてなのです。
福耳さんに関する問題を散々にこじらせて、延々と長引かせているのは、今や福耳さんに対して批判的であった人々ではなく、彼を無理な理屈で「擁護」しようとしているSokalian氏のほうではないかと思います。そもそもそれが、すでに多くの人によって指摘されている彼の最初からの「誤読」と「誤解」を、今頃になって採り上げた理由の一つでもあります。
追記:(12/18)
id:fuku33さんのブクマコメントが入っていたので、こちらに転記します。
id:Sokalianさんの拙論に対する読解、解釈は、社会科学の研究にある程度の訓練を積んできた立場から見て、極めて堅実で精度の高いものです。それを読めず自分から都合よく見える水準で難じている方がいるのでしょうか。
ついでに、彼に対する返答としてメタブクマに書いたことも転記しておきます。
id:fuku33さん、彼に「社会科学」の素養があるかどうかの話は置きましょう。しかし、そうまで言うのならあなたが代わって、矢面に立ってあげたらいかがです。私が疑問に思っているのは、あなたのそういう態度なのですよ。
ついでに付け加えると、あなたは「稲葉先生の金言」を噛みしめているとのことですが、稲葉(id:shinichiroinaba)さんは、ただ「バカに餌をやらない」というだけでなく、あなたが不用意な記事を公開したことについても、きちんと苦言を呈していらっしゃいますよね。あなたが「噛み締めている」金言には、もちろんその部分も含まれているのでしょうね。それに、そもそも「バカに餌をやらない」というのなら、まずは自分が不用意なことを書かず、発言しないということが大前提のはずではないかと思います。
講義の愚痴を書くことが悪いとは申しません。「近頃の学生はバカで」などという品位にもとる愚痴を垂れるなんて、大学教師なら、それが品位にもとると知りつつも、蔭では誰でもやっていることです。しかしこういう往来となると話は別。それにあなたはもう匿名をやめているでしょう。ということは、この講義がどこで行われているのか、ギャラリーには推測がついてしまう、ということでもあります。
もともと、すべてはあなたが「不用意」な記事を書いたことに原因があるのではないですか。であれば、Sokalian氏に後始末を丸投げして、彼を矢面に立たせっぱなしにするようなことをせずに、「最後の幕」ぐらいは自分できちんと閉じてはどうですか。それが大人の責任の取り方というものではないのですか。いまさら「騒動」とやらが再燃することもないでしょうから、そのぐらいは自分でやってもいいのではないですか。
あなたが彼をどう評価しようと、それはあなたの自由です。そのことについては、なにも言いません。しかし、あなたの態度は、まるでSokalian氏に「信任状」や「お墨付き」を次々と与えては、彼をますます引けない立場に追い込み、矢弾をいっぱいに受けさせておきながら、自分は陰に隠れているだけのように見えますよ。あなたに言いたいのは、それだけです。
追記の追記:
どう見てもきちんと経過を追ったとは思えぬ、根拠と客観性を欠き、単に自分の「味方」に対する「党派的」な擁護を図った*3としか見えない福耳さんのコメントに、いささか強い不快感を覚えたために、見も知らぬ人に対して、いきなり「最後の言葉」を発してしまいました。むろん、たかだか100字しか書けぬブクマでその根拠を書けというのが無理なことは承知しています。
このような詰問がぶしつけであることも承知していますが、内容については今のところ撤回するつもりはありません。なお、「最後の言葉」を発した以上、この件については今後いっさい語りません。また、コメントも受け付けません。