Sokalian氏はどこで間違えたか

「みんなはひとりのため」を外した「ひとりはみんなのため」が暴走するとアレなことになる、という話です。


この言葉は、「地を這う難破船」のsk-44さんの「HALTANさんへのマジレス(倫理の枷について)」という記事から引用したものだが、トリアージ的発想の「暴走」が生じる条件について、「みんなはひとりのために」を外したら、というように、明確に指摘している。

Sokalian氏は、自分の最初の記事の冒頭で、「ここの解説が評判がよいようなので引用」とまで言って、せっかくこの言葉を引用しながら、その意味が分からなかったのだろう。ここで、sk-44さんが指摘しているのは、単なる抽象的な「暴走の理論的可能性」などではない。

Sokalian氏の言う、「暴走のリスク」を「どのようにすれば抑制できるか」ということであれば、まさに「みんなはひとりのために」を外すな、それを忘れるな、ということだ。これ以上、明快な表現がいったいどこにあるというのだろう。

Sokalian氏は、「これを度外視したこの批判は、類型的なレベルの低い原子力批判のようだ。」とまで言っているが、それは、彼にはこんな単純な文章の意味することさえ理解できなかったということを意味しているにすぎない。

彼は、「数式や統計が苦手な人が、定量的な判断を回避して情緒に頼るという反知性主義的後退だ。」と言っている。しかし、そのような数学的用語さえ使えば、知的ということになるのだと思っているのだとすれば、それこそ笑止な話であり、自分は頭がいいと思っている理系出身者の単なる思い上がりにすぎない。

「知的」であるとは、まず言葉がちゃんと使え、他人の言葉の意味するところをきちんと理解できるということだ。「専門用語」や「数式」だの「統計」だのを振り回すのは、その先のことだ。

と同時に、そのような「数学的手法」や技術主義的発想が決して万能でもなければ、他の方法よりつねに優れているとも限らないということを悟ることでもある。おのれの「専門領域」が、他の領域よりも先験的に上であるかのように思い込むのは、決して「知的」な態度ではない。真に「知的」な人とは、なによりも、おのれの「専門性」の限界についてもきちんと認識している人のことを言う。