わがひとに与ふる哀歌
某所のコメント欄で、どういう意味で使っているのかさっぱり分からないハンドルを名乗っていた人がいたので、青空文庫からコピペしてみた。むろん、誰が誰のどの詩を好もうが、それは自由である。「死んだ男」という鮎川信夫の詩の一節をハンドルにしている人もいることだし。
わがひとに与ふる哀歌 伊東静雄
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内の
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照さするのに
ちなみに、新潮文庫の「伊東静雄詩集」(たぶん絶版)には桑原武夫が解説を書いているが、それによると旧制の大阪府立住吉中学校で国語教師を務めていた彼は、国文法の時間に文例を黒板に大書して品詞などの説明をするさい、いつも「わたしにはお金がない」と書いたそうで、そのため「大阪一のブルジョア中学の生徒たち」によって「乞食」というあだなを付けられていたそうだ。
1906年(明治39年)長崎県諫早に生まれ、1953年 結核のために46歳で死去
戦後、私は決定的に詩から遠ざかつた。小説家として、かのシモンズの、「およそ小量の詩才ほど作家を毒するものはない」(ドオデエ論)といふ訓誡が、日ましに身にしみて来たからである。(中略)
氏は純潔で、孤独で、わが少年期の師表であつた。しかし今、氏の作品を読み返してみると、その徹底的な孤独に対して、文字どほり騒壇の人となつた自分を恥ぢるのみである。
三島由紀夫「伊東静雄氏を悼む」
昭和28年7月
http://uraaozora.jpn.org/ito.html