「党派性」または「党派的行動」に関するメモ

「党派性」あるいは「党派的行動」とは、なにも政治思想や政治的行動などの場においてのみ発現し、また発揮されるものではない。
自己の正当性をあくまで主張するために、自己の誤謬を後付の詭弁で隠蔽すること、自分にはなんの過誤もないのであり、自分はあくまで「被害者」であるかのように主張し装うこと、意図的であるか否かにかかわらず、自己の「敵」とみなした相手の言論を「曲解」すること、あるいは「わら人形」論法でもって相手を卑小化したうえで、自己の優越性を意味もなく誇示すること、さらにはあからさまなダブルスタンダードを行使して、自分の「味方」とみなした者を内容にかかわりなく擁護すること、そういった行動はどこの世界でも見られることであり、誰もが陥りうる誤りでもある。
「党派的行動」とは、ようするに主観性を排して客観的にものを見ることを放棄した、現実的または仮想的な集団による「私的利害」に発した利己的な行動に過ぎないのであり、だからこそどんな世界にも存在している。
しかも、多くの場合、最も党派的に振舞う者とは、そのことをまったく自覚していない者でもある。いや、むしろ、その自覚がないからこそ、彼や彼女は最悪の「党派的振る舞い」を平然と行い、また公然と行えるのだ。
それは、言うまでもなく、その本人が自己の抱える「偏見」と「偏向」(そこにはそれぞれの「個人的背景」のようなものが影を落としている場合もあるだろうし、一定の正当性がある場合もあるだろうが)にあまりに無自覚に過ぎるからだ。
他人の「党派的な振る舞い」について云々する者は、その前にまず自己の「党派的な振る舞い」を点検してみてはどうなのだ。自分に対する「支持者」であるか否かという、まるでアンケートの答えのごとき単純さでもって、「敵」か「味方」かを判別するという行為は、まさに「党派的振る舞い」の最たるものである。


追記:正直に言って、この人については騒動のきっかけになった当初の記事よりも、自分は煽りにあったただの被害者だというがごときその後の言動に、ただあきれ果ててしまう。ダメダメさを暴露するような自分の言動が教え子らにも筒抜けになっているという可能性について、少しは自覚してはどうなのだ。