言葉はすべてブーメラン(前も言ったけれど)

ステレオタイプな批判をご大層な口振りでやる人は、たんにおのれの思考がステレオタイプであることを示しているにすぎない。
下司な「心理分析」で優越を気取り他人を分かった気になっている者は、たんにおのれの甲羅に似せて穴を掘っているにすぎない。
他人への「批判」には、つねにその人自身の思考の特徴と理解の程度が最も如実に表れる。
その意味において、「批判」とはつねにわが身に還ってくるブーメランなのだ。
そのことを理解していない者や、その覚悟のない者があまりに多すぎる。

 他人への批判であれ、批評であれ、人は良くも悪くも自分の尺度でしかものを言えない。そこで、顕わになるのは、その人が持っている尺度の是非であり、その人の甲羅の形と大きさということになるだろう。その意味で、批判や反論をするということは、どんな場合にも、おのれを他人の前にさらけ出すことを意味する。

 「自分を棚に上げた批判」をする人は、まさにその人がそのような人であることを暴露しているのだし、頓珍漢な批判をする人は、それによって、その能力の程度を示すことになる。くだらぬ嘲笑や罵倒しかできぬ人は、それによって自らがその程度の者であることを表明しているのだし、知ったかぶりや揚げ足取りばかりをする人は、それによって自らがそのようなくだらぬことしかできない人間であることを暴露していることになる。

 だから、批判という行為によって明らかになるのは、対象と同時に、批判をする者自身でもある。自己というものは、なにも気恥ずかしい 「内面の吐露」 や演技めいた 「告白」によってしか、顕わにならないわけではない。言葉というものには、すべてその人の人となりが表されるのであり、言葉を発するという行為は、すべてそのようなものである。

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