とりあえず一言

http://d.hatena.ne.jp/negative_dialektik/20090219/1235005380

 そこには、自らの利益、政治的優位や経済的優位を絶対のものにするためにシステムを築きあげた存在と、そのシステムに抑圧され、厭々ながら従わされている存在とが、ごっちゃにされています。まさに、ミソクソとはこのことです。(中略)

 「私たちがシステムを作った」のだから、悪いとすれば「私たち」みんなが悪いのであり、連帯責任なのだ、自分の責任を棚にあげてつべこべ批判を抜かすな、という言説を、この「私たち」という一語が支えるのです。やれやれ。


ジャングルの中か絶海の孤島にでも生まれないかぎり、人はみな「システム」の中に生まれ、その中で育つ以外にない。人間が「社会的動物」である以上、「システム」の生成は不可避であり、「システム」の外部で生きることは不可能なことだ。そうである以上、程度の差はあれ、誰もが「システム」に対して責任を負っている。なぜなら、「システム」はその中で生き、それによって生きる人らによって、日々維持され、再生産されているのだから。


むろん、これは最も抽象化したレベルでの一般的な話であり、特定の人々について責任があるか否かは、個々の「システム」のレベルと具体的内容に応じて、変わりうることではある。


たしかに「システム」の中には、「自らの利益、政治的優位や経済的優位を絶対のものにするために」、そのような人らによって恣意的に作られたものもあるだろう。だが、すべての「システム」がそのようなわけではない。そのように言うのは、歴史や社会が一部の権力者や既得権益者の恣意によって作られてきたというレベルのただの観念論にすぎない。社会はそんなふうにできあがったわけではない。そのような「システム」など、それこそただの寄生的で非本質的なシステムにすぎない。、


そもそも、生まれたての子供を除いては、「世界」の中に絶対に無垢な者、いつまでも永遠に無垢であり続けられる者、いかなる「システム」にも責任を負わぬ者などは存在しない。そして、そのようにわれわれはみな、なんらかの「システム」に対して責任を負っているからこそ、「システム」それ自体が独走するのであれば、「システム」を批判し、そのような「暴走」を防止することもその責任に含まれるのではないのか。


あなたの論理だと、船が間違った方向に進んでいるときも、沈みそうなときも、みんな連帯責任だから、船長に文句を言ってはいけないことになる。そんな馬鹿な話はないだろう。責任があるからこそ、批判もし、船の方向が間違っているなら、それを正しい方向に向けさせなければならない。その責任の程度は、むろん平時ならば、地位の上下などによって異なりはするが、まさにいま船が沈みかけているというのであれば、そんなのんきなことを言っているわけにはいかないだろう。


間違っているのは、「お前にも責任があるのだからつべこべ文句を言うな」という、それこそ自らの責任を棚上げにした上位の者による恫喝の論理なのであって、各自なんらかの責任を負っているという「事実」ではない。間違いに対しては批判し、軌道を修正させるということも、各自が自己の責任を果たすということのひとつの有り様ではないのか。そこで負うべき責任とは、天皇を免責するために持ち出された「一億総懺悔論」のように、ただたんに「私にも罪があります」とうなだれることと同じではない。


村上の「システム」論が素朴なのは同意するが、そもそも彼は「文学者」であって「社会科学者」ではない。それは木によって魚を求めるという話、ただのないものねだりにすぎない。しかし、引用した文に表れているような単純な二元論に基づいた「社会観」も、「フランクフルト学派」などを持ち出すわりには、あまりに素朴にすぎはしないか。



念のための追記:「システム」内部の者は、それに対して多かれ少なかれなんらかの責任を負うものだとしても、そのことは「システム」内部に矛盾や利害の対立が存在することを否定するものではありません。



別の話:私は安易な反近代主義には与しないけど、根っこのところでは「近代主義」などくそ喰らえと思ってますよ。
「だからなに?」というのはそういう意味です。