民族性と民族主義は別の問題(一部修正・追記)

「民族性」というものは、その自覚の有無にかかわらず、おそらく数千年だか数万年だか前から存在する。しかし、「民族主義」はそのような「民族性」の自覚の上に成り立ったものであり、たかだか100年から200年の歴史しかない近代の問題だ。なので、この二つの問題は明確に区別しなければならない(ここまでは当たり前の話)。

実際の話、「民族性」そのものは、誰にも否定できるものではない。たとえ様々な民族の間に生まれ育った場合であっても、いかなる「民族性」も持たない人間は存在しないし、人が母語として話す言葉はすべてどこかの民族語であり、誰もがどこかの民族的文化の中で育つのだから(例外はむろんある)。もっとも、そういう民族性も永遠に不変なわけではない。

ただ、そのことと「民族主義」の問題ははっきりと区別すべきだ。「民族性」を肯定することは、それ自体「民族主義」を肯定することではないし、「民族主義」を批判ないし否定することは、いっさいの「民族性」を批判し否定することまで意味しはしない。

戦後の占領から60年頃までは、日本でも反米愛国主義的な潮流が左翼の主流を占め、「民族独立行動隊」なんて歌が流行ったこともある(山口あたりには、今でも残党がいるようだが)。それは、当時の「対米従属」(むろん、今も完全に払拭されているわけではないが)という状況からすれば、分かることではある。しかし、それが「ヤンキーゴーホーム」のようなスローガンとなって表れるなら、それは排外主義であり間違っている。

ある国家なり地域の中で、同じ民族性を持つ抑圧されている者どうしが集まるのも、そこで自己の民族性を確認しよう、失われた自己の民族性を取り戻そうというのも、それは当然なことだ。誰もが自己の民族性を自由に誇る権利は有するし、そのことを妨げてはならない。そのために、マジョリティの側に譲歩や援助をする必要があるなら、それを要求する権利も彼らにはある。

いかなる人間も自己の「民族性」を主張する権利を有するのは、むろん「民族性」が多かれ少なかれ人間のアイデンティティにとって必要不可欠な一部であるからだ。しかし、「民族主義」は、人間が自己のアイデンティティを事実としての「民族性」からの抽象によって成立した「民族」という観念的な共同体に置くところに成立する。そして、「民族主義」という近代のイデオロギーがはらむ問題も、そこから必然的に発生してくる。

中東に「イスラエル」という国家を建設したユダヤ人の歴史が、そのことを一番証明している。彼らはヨーロッパにおける被差別民族*1であったが、中東に自己の「国家」を建設することで、現にパレスチナに対する抑圧民族としてふるまっている。その二つをつないでいるのは、「シオニズム*2という彼ら特有の民族主義ではなかろうか。

民族主義が高揚すると、そこにはかならず「排除」と「序列化」、「差別化」の論理が生まる。そして、たとえばセルビアミロシェヴィッチのように、その高揚した民族主義を自己の権力掌握と強化のために利用しようとするデマゴーグや小独裁者らもまた、必ず登場する*3。これは何度となく繰り返されてきた否定できない歴史だ。アジア・アフリカにおける戦後の植民地独立のように、「民族主義」が抑圧された民族の抵抗と自立の過程で通らなければならない道筋であるとしても、それが孕んでいる固有の問題についてもまた目を背けるべきではない。

「お前は何人だ?」という問いが、旧ユーゴや旧ソ連の解体過程でどのように働いたか。「民族主義」について語るならば、そのことを忘れるべきではない。むろん、それは特殊な状況下で起きたことであり、それと同じことが他のあらゆる場所で起こりうるとまでは言わない。しかし、それはいかなる民族主義も孕んでいる、民族主義というものの本質にかかわる問題ではあるまいか。その意味では、id:Midas氏の「生来の「白い」民族意識などない。」という言葉は必ずしも間違いではない。

「穏健な民族主義」や「革命的な民族主義」、「反動的で過激な民族主義」などという現象的な分類は可能だとしても、民族主義自体に「良い民族主義」と「悪い民族主義」があるわけではない。その時々の環境や条件によって、そのどういう面が主要に発現するかの違いはあるとしても、民族主義の本質はひとつであり、その「良い面」と「悪い面」とは裏表でつながっているのだから、「悪い面」を切り離して「良い面」だけを取り出すというわけにもいかない。それは磁石のN極とS極を切り離して、一方の極だけで成り立った磁石を作るわけにはいかないのと同じことだ。

むろん、「民族主義」という現象が歴史的な必然性と現実的な根拠を持っている以上、それを言葉だけで否定することはできない。人間はみな「民族」的存在である以上、それぞれが持つ、ナショナルな感情やナショナルな感覚のすべてを否定することもできない。しかし、そのようなものが人間の情動に強く訴えるものを持っているだけに、少なくともそこに孕まれている問題については、誰もが心に留めておく必要があるはずだ。


追記:(2009.4.3)

Midas: はっきり区別できないからこんなに問題となってるのでは。区別できてりや警察はいらない。でも本当の問題は例えばユダヤ人ですらそのへんが曖昧な点。「ユダヤ人とユダヤ性は別…」とブ米した通り

「はっきり区別すべきだ」ということは、まず概念上の問題として別のことであるということを明確に意識すべきだということ。事実として、その区別が困難であることは否定しない。zames_maki 氏に対しても言ったことだが、事実というものはつねにぐちゃぐちゃしたものであって、概念どおりに明確に区別されて存在しているわけではない。概念は事実を基礎にして作られた抽象的なものだが、であればこそ事実を腑分けし分析する場合の尺度としても役立つし、役立てねばならないよという話。

*1:長い離散の歴史のために、互いに異なる「文化圏」に帰属することとなり、信仰と信仰に基づく一定の伝承や風習を除いて、互いの共通性を喪失していた各国のユダヤ人をひとつの「民族」としてまとめられるかは、レーニンやらなんやらの論争もあって、本当は面倒な話なのだが、ここではそういうことにしておく。なお、寄せ集め的に形成された、今のイスラエル国内のユダヤ人についても、同様の問題はまだ残っているようだ。

*2:ついでに言えば、ケストラーが論じているようなユダヤ人の出自や移動の問題は、もっぱら「実証史学」の問題なのであって、イデオロギーとして形成されてきた「シオニズム」の問題と直接に関係はしない。「日本民族」もむろんだが、いかなる民族も様々な出自を有する集団の融合や分離によって歴史的に形成されてきたものなのだから、「ユダヤ人」なるものが様々な出自を持つ集団で形成されているとしても、それはことさらに問題になることではあるまい。そもそも「人種」と「民族」は違うのだし、純粋の民族なんてどこにも存在しない。(野原さんの指摘によりケストナーをケストラーに訂正)

*3:この場合、ナショナリズムを梃子として独裁的権力を握ろうとする者らは偽の「愛国者」であり、偽の「民族主義者」にすぎないという議論も成り立たなくはない。たしかにそういう場合もなくはないし、また彼らがまず批判されねばならないのは当然のことだが、「民族主義」が高揚すると必ずそういった者らが登場し、少なからぬ支持を集めるということは、「民族主義」というイデオロギーが本質的に抱えている非合理性という欠陥の表れと言うべきではないだろうか。