「正当性」と「合理性」についてのメモ

いかなる行為も、その本人が狂っているかよっぽど愚かでない限り、当事者にとっては合理的なものだ。
たとえば、事件や事故を起こした者が、その場から逃走したり、証拠を隠滅したりという行為も、その本人の立場に立てば、一定の「合理性」はある。とりわけ、それが明るみに出ることで受ける罰が不当に大きいものであったり、それによって失うものが、当人にとってきわめて大きなものである場合には。

多くの場合、ある行為の「合理性」を認識することは、その当事者の立場に立ち、その利害を理解し、その視点で状況を見てみることが可能でさえあればそう難しいことではない。つまり、ある行為の「合理性」を認めることは、その行為について内在的に理解するために必要な手続きであり、手順であるというに過ぎない。

しかし、それはその行為が「正当」であると認めることと同じではない。その行為が「正当」かどうかは、その当事者の立場や利害、あるいはその行為の目的によって判断される。

その行為自体にいかに「合理性」があろうと、その者の立場や利害、その行為の目的が不当なものであれば、その行為に「正当性」はない。

だから、問題はその行為が「合理的」かどうかではない。
問題は、つねにその先、あるいはその外にある。