「社会的差別」とはなにか

こことの関連で、「社会的差別」という問題について、ちょっと書きたくなったので書いてみる。結論をあらかじめ述べておくと、種々の「社会的差別」と、たんなる個人的な不利益一般の問題とは、まったく別の問題だということだ。そのへんをごっちゃにしてしまうと、あれも差別、これも差別、ということになって、話がどんどん拡散してしまうよと。

たとえば、先生が特定の生徒をひいきしたり、スケベな社長さんがお気に入りの女性社員を優遇するというようなことは、世間では珍しくもない。それは、たしかに他の生徒や社員からすれば不当ではある。しかし、その理由が、相手が「ゴマすり上手」とか「言うことをよくきく」、「容姿がいい」などといった、その先生や社長さんの個人的な好みや利害から発する限り、それは「社会的差別」の問題ではない(厳密に言えば、そこでもなんらかの「社会的価値観」が働いているということはなくはないが)。

「社会的差別」は、ある集団を「劣ったもの」、「穢れたもの」、というように一括してカテゴライズするところから生じる。そこでは、彼らが自分たちよりも「劣ったもの」、「穢れたもの」であることは、社会的な約束事として前提となっている。したがって、なんらかの場面で、そのような集団に属する個人を具体的個別的に差別することは、論理的に言って当然の帰結であり、正当な行為だということになる。

そして、そのような差別が宗教だの伝統だのという、なんらかのイデオロギーによって社会的に正当化されている限り、その集団に属する者が、「それは不当だ!」という声をあげたりすると、逆に「お前はなにを言ってるんだ」と嘲笑されることになる。中には、「いや、それは差別じゃない、ただの区別だ」とかいう、よくある理屈を持ち出す者もいるかもしれない。

つまり、そのような「差別」は、Aなる人間がAなる個人であることで起きるのではなく、Aなる個人がたまたま○○という集団の一員であるということ、言い換えると、Aなる人が一人の具体的な個人としてではなく、○○という集団のたんなるサンプルとして扱われることから生じる。要するに、「社会的差別」はそのような個人の具体性を無視し抹殺することから生じているのであり、そもそも特定の具体的な個人を対象とするものではないということだ。

だから、日頃から○○なる集団について、世間一般に共通する差別的意識を持っている者でも、たまたまその集団に属するある個人と付き合ってみて、それがいいやつだったり、優秀な人間だったりすると、「あいつは○○にしては、なかなかいいやつだ」とか、「○○にしておくには、もったいない」などと言い出したりもする。

多くの場合、こういうことを言う者は、それによって、自分は「差別」に対して寛容であるとか、「偏見」ばかり持ってるわけではない、ということを言っているつもりなのだろう。だが、むろん、この場合には、たまたま「いいやつ」だった個人が○○というスティグマを解除されて、「名誉××」扱いをされたにすぎない。つまり、○○という集団に対する社会的差別そのものは、なんら問題とされておらず、そのまま温存されているということだ。もちろん、そういう出会いがきっかけになって、「差別」そのものの不当性についての認識にまで進むなら、それはそれでいいことだが。


ところで、たまたま、こういう記事があった。
http://tonaki.blog.shinobi.jp/Date/20090121/

昨年11月、ある学校のトイレなどで「差別落書き」が発見されました。学校は、落書きをすぐに消しましたが、各関係機関に報告するとともに、一部運動団体にも報告していました。
この運動団体は、この事象について市に対し「確認会」を要請し、市や市教委は12月に「確認会」を2回行っています。

申し入れでは、

■「落書き」について
発見者が速やかに消すことで解決とすべきである。
落書きを差別事象として扱うことは、差別の実態を歪めるもので、落書き実行者の目的達成に手を貸すことになる。

(一部省略)

差別は、人権侵害の「事実」であって、「意識」や「心理」を差別と決め付けることは大きな間違い。
市民を差別者扱いし、差別意識心理的差別を問題にする人権教育・啓発はやめること。


この記事で言及されている事例がどういうことか、具体的には分からない。だが、学校のトイレということから判断すると、おそらくは生徒の誰かが、「○○は死ね!」みたいなことを書いたのだろう。その限りでは、具体的な人権侵害としての差別事件ではなく、ただのイタズラにすぎない、ということも言えなくはない。

しかし、その落書きが、書いた者にとってはただのイタズラであり、特定の誰かを指すような明確な意図も意識もなかったとしても、その生徒(たぶん)は、対象である集団について、それなりに具体的な、なんらかの否定的なイメージは持っていたはずだ。

学校でインドのカースト制について学んだとしても、それだけで「○○は死ね!」などという落書きをする者はいないだろう。欧米でのユダヤ人差別について学んだとしても、この日本において、それだけで「ユダヤ人は死ね!」などという落書きをイタズラでする者もいないだろう。それと同じように、たまたま学校の「同和」教育や人権学習で、○○なる言葉を知ったとしても、それだけで「○○は死ね!」(←あくまで例、実際はどういう落書きだったのかは分からない)などという落書きを、ただのイタズラ心でする者もいないだろう。

その生徒(たぶん)が○○について持っていた差別的なイメージが、誰からどのようにして吹き込まれたのかは、ここでは問わない。おそらく、それはきわめて陳腐で愚かしいものにすぎないだろう。だが、社会的差別は、そもそも「差別者」が「被差別者」に対して、そのような陳腐で愚かしいイメージしか持っていないからこそ生じ、また容認されるのではないか。それは、在日外国人に対する差別でも同じことだ。

カルデロンさん一家に対する「追い出しデモ」を敢行した連中もそうだが、愚劣なヘイトスピーチを行う者は、彼らがその対象に対して、漫画チックで愚劣なイメージしかもっていないからこそ、そういう行為が平気でやれる。その証拠に、彼ら一家を身近に知っている者は、誰一人そんなことはしない。その逆に、彼らは、一家が具体的にどのような人間か知りもしないし、また知る気もないからこそ、そういう愚かしい行為をやるわけだ。ユダヤ人問題でもそうだが、差別がしばしば「陰謀論」と結びつきやすいのも、具体的な現実よりもアホなイデオロギーを優先させる、その妄想じみた愚かさに共通するところがあるからだろう。

この「となき正勝」という共産党宝塚市市議は、「社会的差別」に基づく具体的な差別行為がどのようにして生じるかということをまったく理解していない。部落差別をはじめとして、社会的差別による具体的な人権侵害という「事実」が生じるのは、その背景に社会的に制約されたなんらかの差別的な意識や心理が存在するからだろう。それとも、そのような「意識」も「心理」も存在しないのに、ある日突然、人権侵害という「事実」のみが発生するとでもいうのだろうか。

むろん、具体的な差別行為という「事実」と、その背景にある意識や心理とは分けなければならない。だが、だからといって、「差別意識心理的差別を問題にする人権教育・啓発はやめること」という申し入れを市に対して行うとは、この男はいったいどういう人権感覚をしているのだろうか。

共産党は、すでに部落差別は基本的に解消されたという立場を取っているらしい。むろん、かつて藤村が「破戒」を書いたような時代から較べれば、差別ははるかに解消されてはいるだろう。地域によっては、そのような差別がほとんど存在しないところもあるかもしれない。しかし、どう見ても、この記事からは、たんに彼らが対立している団体に対する、きわめて政治的で党派的な対抗意識しか感じられない。「落書き実行者の目的達成に手を貸すことになる。」とは、いったいなにが言いたいのだろうか。まったく、お話にならない。