過去記事の発掘 - 「表現」に伴う責任

 public という概念について(2007/12/11)

 英語の単語で日本語に訳しにくいものに、public という言葉がある。一般には 「公」 とか 「公共」とか訳されるのだが、どうもしっくりしない。辞書をひくと、「社会」 とか 「世間」といった訳語ものっていて、たぶんこっちのほうが本来の語感に近いのだろう。

 たとえば、public domain という言葉がある。例をあげれば、著作権特許権で保護されていない、誰もが自由に利用できる技術や情報などを、public domain に属するという。また public knowledge は、普通 「公知」などと訳されているが、これも同じように、特定の個人や団体が独占しているのではない、広く一般に知られた知識のことを意味する。


表現の自由」とは、たんなる内心の自由や思想・心情の自由とは違う。他人には見せない秘密のノートに「○○のバカ!」とか「○○は死ね!」などと書くことや、親しい友人との「交換日記」や内輪の「回覧ノート」で破廉恥な妄想や悪逆非道な妄想を互いに書きあい見せ合うことは、そもそも公権力の及ばぬところであるから、「表現の自由」という権利が関知するところではない。


そのようなノートの類が誤って誰かの目に触れたところで、不特定多数への公開を意図していない限り、問題になるのは「思想・信条の自由」なのであって、「表現の自由」の問題ではない。表現するとは、公開の場に発表し、不特定多数の者の閲覧に供することなのだから、それが誰かの権利を侵そうが侵すまいが、国家や官ではなく公共に対してはつねに責任を負わなければならないのは当然のことだ。


むろん、それはただちに法的な責任を意味するわけではない。また、社会に対して責任を負うとは、なにも社会による有形・無形の圧力に服すべき、という意味ではない。また「表現」の価値は表現自身にあるのだから、自己の表現について、社会に対しつねに申し開きをしなければならないわけでもない。とはいえ、「表現の自由」に伴う責任が、少なくとも「公共」に対するという意味で社会的な責任である以上、それはたんなる個人の内面的な規範にすぎない「道徳」に解消されるわけでもない。